2015年7月31日金曜日

いつ死んでも、大丈夫

 
 
これまで、人生がどのようなものか、全体像を見てきました。
 
 
振り返ってまとめると、
 
 

1、工夫次第で、楽(幸せ)を増やすことができます。
 
 
2、人生には、避けられない苦しみもあります。
 
  特に「いつか必ず死ぬ」ということは、誰もが避けたいものです。
 
 
 
 
 
 
もしも「死ぬ」ことが無かったら
 
 
 
もしも「死ぬ」ことが無ければ、
 
人生をはるかに幸せの多いものになります。
 
 
 
みんなが死なないのだから、
 
大好きな人と別れることもありません。
 
 
もちろん自分が死ぬこともありません。
 
 
 
 「死んだらどうなるか、分からない」という不安も、無くなります。
 
 
 

 
 
 
「死ぬ」ことは、人生最大の不幸
 
 
 
しかし、とても残念なことには、
 
わたしたちは必ず死ぬ日が来ます。
 
 
 

ところで、なぜ死ぬのは嫌なことなのでしょうか?

その理由をいくつかあげてみます。



 

・まず、家族やお友だちと会えなくなります。
 
 彼らはこの世に残り、自分だけ、死んでいきます。

 


・稼いだお金や、買った物とも、別れることになります。

 
 
・いつ死ぬか、分からない。
 
 事故や災害など、急に死ぬことになったニュースは、
 
 毎日のように流れています。
 


・死んだらどこへ行くのか、分かりません。
 
 「死んだらみんな天国へ行く」とも言われますが、
 
 次の世があるかどうかも、本当には分かりません。


 

・死んでしまう時には、自分の肉体とも別れないといけません。

 指が1本無くなるだけでもつらいのに、

 この体まるごと、別れないといけないのです。

 
 
 

このように、まじめに考えてみると、
 
死ぬということは他の苦しみとは別格の、人生最大の不幸と言えます。
 
  
 
 
そのため、仕事に没頭する人の中には、

「死の恐怖を忘れる手段」として、

仕事に夢中になっている人もいるほどです。
 
 
 
 
 
どうにかして、この「とても嫌なこと」を解決できないでしょうか?
  
 
  
 
やせ我慢ではなく、本心から
 
「いつ死んでも、大丈夫」
 
と言えるようになるには、どうすればよいのでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
「いつ死んでも、大丈夫」になった、人生の先輩たちを探そう
 
 

死ぬことは、人間にとって大問題であるはずですが、
 
まったく解決策が無いためか、話題にのぼることすらありません。
 
 
 
もしかしたら、死ぬ直前の肉体的な痛みや恐怖心は、
 
麻酔や薬でごまかせるかもしれません。
  
 
しかし
 
 「死んだらどうなるのか?」
 
 「死後があるのか、ないのか?」
 
という問題は、解決されないまま。
 
 
 
「死んだらどうなるの?」という話をしてくるのは、
 
幼い子どもくらいのものです。
 
 
 
けれども「死んだらどうなるの?」という問題を解いた大人は、
 
ほとんどいないのではないでしょうか。
 
 
 
多くの人が、「そんなことは、大人は考えないものだ」といって、
 
子どもの頃の疑問を、忘れてしまっているのだと思います。
 
 
 
なぜなら、考えても考えても、答えが出ないから。
 
 
 
 
 
でも、イスラム教徒の人に聞けば、
 
 「自分がどこから来て、死んだらどこへ行くのか、分からない。
 
  だからこそ宗教が必要なのだ」
 
と言いますし、
 
キリスト教徒の人にとっても、死後や神の存在は大問題です。
 
 
 
わたしにとっても、子ども時代から大人になっても、
 
どうにかしてこの問題を解決したいと考えていました。
 
 
 
では、どうすれば「いつ死んでも大丈夫」と言えるようになるのでしょうか。
 
 
 
 
 
 

「いつ死んでも大丈夫」の条件
 
 
 
私が考えた条件は、この2つです。
 
 
 
 1、「死んだらどうなるか分からない」という不安が解消されている
 
 2、しかもそれが、一時的な思い込みではない。(死ぬまで不安が解消された状態)
 
 
 
 
『光雲な毎日』という本にくわしく書きましたが、
 
わたし自身、仏教との出会いによって、
 
「死んだらどうなるか分からない」という不安が解消されました。
 
 
 
そこで興味が出て、この「死に対する不安」を解決をした人々が、他にもいるんじゃないかと、
 
10年ほど前、龍谷大学の大学院に入って、
 
仏教とキリスト教を比較する、という研究をスタートしました。
 
 

その中で、「いつ死んでも大丈夫」という境地に生きた人々を知りました。
 
 
 
 
 
もしかしたら中には、ただ思い込みが強かっただけの人も、いたかもしれません。
 
 
 
けれども、少なくとも「いつ死んでも大丈夫」と言えるようになったことは、
 
とても素晴らしい価値があるものだと思いました。
 
 
 
なぜなら、「いつ死んでも大丈夫」と言える境地で生きている人は、
 
ほとんどいないからです。
 
 
 
 
 
 
 
もっとも自由な人生
 
 
 
 
死後への不安が解消されて、
 
「いつ死んでも大丈夫」と言える人生は、
 
もっとも自由な人生だと思います。
 
 
 
なぜなら、「いつ死んでも大丈夫」ということは、
 
世界中の人が恐れる「死」から、自由だからです。
 
 
いつ死ぬ日が来ても、困らないわけです。
 
  
 
 
わたしは仏教によって死から自由になったわけですが、
 
そういう力を持つのは、仏教だけではないかもしれません。
 
 
西洋哲学やキリスト教の世界でも、
 
素晴らしい宗教体験を得た人の記録はのこっています。
 
 
 
※くわしく知りたい人は、「宗教体験の諸相」という本がおすすめです。
 
宗教的経験の諸相 ウィリアム・ジェイムズ 
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まじめに生きると、死と向き合うことになる
 
 
 
人生にまじめに向きあうと、死を考えることは避けられません。
 
生と死はコインの裏表であり、
 
生まれたからには、100%死ななければいけないからです。
 
 
 
ならば、ごまかし続けるのではなく、
 
正面から向き合って解決しようとするのが、よいと思います。
 

 
みなさんがどのような道で、死を解決しようとされるかは、分かりません。
 
わたしは仏教でしたが、違う道を選ぶ人も当然あるでしょう。
 
 
 
 
参考までに、わたしが通った道をまとめると、

 
 ○「いつ死んでも大丈夫」になった人を見つける
 
 ○その人と同じ道を進んで、死後への不安を解決する
 

このようになります。 
 
 
 
 
少なくとも、自分よりも先に「いつ死んでも大丈夫」になった人を見つけることで、
 
大きなヒントが得られるはずです。
 
 
 
 
たくさんの人たちが、いつ来るか分からない死に対して
 
「いつ死んでも大丈夫」と、堂々と言える日が来るのを、
 
心より願っています。
 

 
 
 
 
 
 
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