2015年8月1日土曜日
3、もしも自分が死んだら、どうなるの?
亡くなった近所の子
子どもの頃、河原でよく遊んでいました。
家の前の土手をおりると、すぐ河原になっていて、
よくそこでみんなと集まりました。
その川は、たいして大きくもない、大田川の支流です。
深い場所もほとんどなく、わりと安全な場所でした。
ある日、 きみちゃんという1つ上の女の子が、向こうから走ってきました。
きみちゃんの家には、遊びにいくとよくお野菜入りラーメンを作ってくれる、
やさしいお母さんがいました。
そのきみちゃんが、異様にあせった感じで走ってきて、
「○○ちゃんが、大変や」
と言うのです。
分かったことは、
わたしたちが遊ぶ河原から400m下流で、
○○ちゃんという2才の女の子が、死んだこと。
小さな子が好きだったわたしは、その子ともよく遊んでいました。
その子は、年上のお兄ちゃんがいたのですが、妹だけが死んだのです。
たいして深くない川なのに、
たまたま深くなっていたところに、
はまってしまったのでした。
その時感じた風景は、今でも忘れられません。
じりじりと暑く、土手の砂が白かった。
後で母に聞いたところ、川に落ちた女の子はなかなか見つからず、
大きなフォークのような道具で、
大人たちが川底を刺して探したそうです。
「モノみたいに刺されるのか・・・。たとえ生きていても、それだけで死んでしまうじゃないか。」
2才で死ぬなんて。
自分が死ぬ、ということ
自分はたまたま死ななかったが、
自分も死んでも、何もおかしくなかった。
わたしも、いつも河原で遊んでいたから。
人は必ず死ぬ、という当たり前のようなこと。
絶対に自分は死なない、と思って、生きているわたし。
でも、死んだ後、どうなるか分からない。
大人に聞いても、だれも答えてくれない。
死への恐怖。
死んだ後、どうなるか分からないこと。
人生に対する大きな問い。
そんなものの原型が、わたしの中に根づいていったのでした。
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