2015年8月3日月曜日

2、芸術との格闘

 
 

小学校6年生・正月 
 
 
 
絵も本も好きだった、子ども時代
 
 
 
小さい頃から、絵を描いたり本を読んだりするのが、大好きでした。
 
お母さんによると、外に遊びに行っても、走って帰ってきて、
 
家で本を読んでいるか、絵を描いていたそうです。
 

 
青いクッキーの缶にクレヨンが入っており、よく絵を描いていました。
 
 
 
お姉ちゃんの木の机の裏や内側に、
 
油性マジックで「あいうえお」「かきくけこ」と、
 
えんえん、ひらがなを書いたりもしました。
 
 
 
そんなことをすれば、怒られそうなものですが。 
 
 
 
でも、怒られた記憶がまったく無く、
 
のびのびとマジックで書いていたようです。
 
 
 
背中からあたたかい陽の光が差していて、
 
とても平和な気持ちで書いていたのを、覚えています。
 
 

 
 
また、家には大人の腰くらいの高さの本棚があり、
 
世界名作童話シリーズが並べてあって、
 
イワンのバカ、とか、イソップ物語とか。
 
 
そういう本を読むのも好きでした。
 

 
 
描いていた絵で思い出すのは、
 
りんごの木の横におねえちゃんを描いて、
 
またりんごの木を描いて、
 
お母さんやお父さんを描いて。
 
 
 
ひらがなが書けるようになったら、
 
「りんごがたべたいなあ」
 
という文字を入れたりもしました。
 
 


 
本は、「大草原の小さな家」が大好きでしたし、
 
寝る前にお母さんが「若草物語」を、すこしずつ読んでくれるのも、とても好きでした。
 
 
 
その中によく出てくる、
 
「植物を植える→実を収穫する→お鍋でぐつぐつ料理を作る」
 
みたいなお話が、お気に入りでした。
 
 

自分でも、犬やうさぎやネコを登場人物にして、
 
家族が畑を作り、収穫し、お母さんが料理してる横でよだれをたらす子どもがいる、
 
みたいな絵を、小学校低学年のころに描いていました。

 
 

「裕子創作物語」とノートに題をつけて、
 
『しいたけ山のしいたけたち』など、
 
自分で物語を作っていました。
 
 

  

またその頃、貸し本屋というのがあり、
 
10円とか20円で、1冊マンガが借りれました。
 
 
 
愛読していたのは、
 
「なかよし」「りぼん」という少女雑誌。
 
 
 
マンガを読んでいましたが、
 
コピーするように真似して描いたりは、あまりしませんでした。
 
それよりは、自分で物語を作る方が好きでした。
 
 
 
 
 
 
 
映画を好きになる
 
 
 
小学校高学年になると、ぐっと大人びて、
 
「ロードショー」「スクリーン」といった、映画雑誌を見るようになりました。
 
 
 
その頃の映画は、例えば『カリギュラ』など、
 
古代ローマ皇帝の残虐な話が描かれたものが流れたりしました。
 
 

映画雑誌には、マットディロンやトムクルーズが出ていました。

 
 
父が夜テレビでよく映画を見ていて、
 
「太陽がいっぱい」という名作映画を覚えています。
 
 
 
とてもハンサムなアランドロンが主役でした。
 
 
 
貧しい青年が成功を夢見て、金持ちの友人を殺し、
 
彼の恋人まで奪い取り、
 
しかも殺しがばれないよう、その友人のお金を使い続ける。
 
 
 
そんな悪党の話なのですが、
 
アランドロンがかっこう良くてすてきなので、
 
つい、捕まらないでほしい、と思ってしまいました。
 
 
 
最後にアランドロンが『すべて、うまくいった』と思った瞬間に、
 
死体が見つかって捕まってしまうのです。
 
 
 
そうやって映画が好きになり、
 
小学校5,6年のときには、
 
お年玉で映画音楽のLP(レコード)を買ったりしました。
 
 
 

 
 
お菓子作りに夢中になる 
 
 
 
小学校4年くらいから、お菓子作りに熱中しました。
 
最初はゼリーから始めて、
 
レモンゼリーを作りました。
 
 
 
それから、ありとあらゆる果汁を使って、
 
みかん、いちごなどのフルーツ、
 
ミルクプリンやババロアも作りました。
 
 
 
作ったら、お姉ちゃんが喜んで食べてくれました。
 
  
 
一番人気があったのは、ココアマシュマロプリンで、
 
ココアを混ぜて作ったミルクプリンに、
 
溶けかけのマシュマロを入れるのです。
 
 
  
 
一人部屋をもらって
 
 
 
4年生の秋に、自分の部屋をもらいました
 
わが部屋ができたのは、うれしかったです。
 
 
 
それはもう、自慢の部屋で、
 
そのころの田舎(広島県可部町)にしてはとても豪華で、
 
小さなシャンデリアまでありました。
 
 
 
壁紙やカーテンもおしゃれで、白に淡いオレンジの花柄。
 
とても日当たりも良く、
 
すごく好きでした
 
 

しかし一人部屋で一人で寝ることになったため、
 
夜、寝るのが怖かったです。
 
 
 
それまで一人で寝たことが無かったので、
 
「自分は一人なんだなあ」
 
ということを、夜、感じるようになりました
 
 


それまでは、人の気配がたくさんある長屋に住んでいたので、
 
大きな変化でした。
 
  

 
 
 
さらにお菓子作りに没頭 
 

 
お菓子つくりはどんどん熱中して、
 
5年生の時には、オーブンを使い出しました。 

 
 
もう毎日、何か作っていました。
 
 
 
お菓子の本を見るのも好きで、
 
特に「マドモアゼルいくこ」という、
 
武蔵野美術大学を出てフランスに住んだこともある人の本が、
 
お気に入りでした。
 
 

その本は、イラストと一緒にお菓子の作り方が書いてあり、
 
フランスにちなんだエッセイもついてる。
 
 
物語に出てくるお菓子のページもあって、
 
赤毛のアンのパイとか、 
 
写真は無かったんだけど、それを読むのが好きでした。
 
 
 
そのころ私は、将来はケーキを作る人になろうかな、
 
と思っていました。
 
 
 
イラストを描いて、レシピを書いて。
 
 
 
6年生のときの卒業アルバムには、
 
大学は家政科に進んで、ケーキを作る人になりたい、
 
と書いたはずです。
 
 
 
 
ありとあらゆる友達の誕生日に、ケーキを作っていました。 
 
 
 
 
 
絵を描く人になろうかな
 
 
 
絵を描くのが好きなのは続いていて、
 
中学校の頃は、絵をよく描いていました
 
 
 
自分の顔や人の顔をよく描いていて、
 
えんぴつでこすったりして、
 
こすったら影ができて、
 
そうやって肖像画を描いたりしていました。 
 

 
美術の先生には、
 
「フジタみたいだね」(戦前よりフランスのパリで活躍した、レオナルド藤田嗣治のこと)
 
と言われたことがあり、そのときは誰だろうなーと思ってましたが。 
 
 
 
そうやって、こすって描くのが好きで、
 
人の顔とか、中学校2年生から好きになったデビッド・ボウイの顔とか、
 
写真を見ながら、鉛筆でこすってスケッチブックに描いていました。
  
 
 
以前から、自分は絵が得意なんだな、と思っていました。
 
体育も得意でしたが、自分よりも足の速い子はいました。
 
 
 
でも、小学校のころから、
 
絵画コンクールでは、毎回優秀賞をもらっていました。
 
 
 
勉強もできると思っていましたが、
 
お受験をした中学に入ると、
 
各小学校のトップ1、2の子たちばっかりでした。
 
 
 
でも、中学校でも、絵は上手なほうでした。
 
なので、おれ、美術いけるんじゃないか?
 
と、思っておりました。
 
 
 
描いている時間も、たのしかったです。
 
 
 
中学校で覚えているのは、
 
「対になる2つの言葉を、画面の中に構成しなさい」
 
という課題。 
 

 
ほとんどの子は、悲しみと喜びなどを、
 
画面の「右と左」「上と下」に描いていました。
 
 
 
けれども私は、「手前と奥」に描きました。 
 
そんな風に描いている子は誰もいませんでした。
  
 
 
奥にあるのは、辛さや悲しさ。
 
その手前に、ダイヤモンドのような光がある。
 
 

その光と悲しさの間には、
 
画面いっぱいに金網のような、柵(さく)を描きました。
 
 
 
 
 
 
自分の道を探した高校時代
 
 
 
高校は、そのまま広島女学院の高校に進みました。
 
 
絵は、文化祭のポスター作りコンクールで、 
 
ギリシャ神話が好きな時期だったので、
 
空を飛んでいるペガサスを描いたりしました。
 
 
 
英語が盛んな学校で、学年の4分の1がアメリカにホームステイに行っていました。
 
 
1ヶ月前後、アメリカに行く子が多かったですが、
 
学年に1人か2人は、1年間留学していました。
 
 

わたしは、当時はそこまで海外に興味はなかったのですが、
 
誰にもできないことがしたい、とは
 
思っていました。
 
 
 
部活動では卓球をしており、
 
一時期は「プロの卓球選手になって、日本たばこに入団するぞ」と
 
燃えておりました。
 
 
 
しかし、学年が上がるにつれて
 
自分よりも上手い子が出てきました。
 
 
 
そこで、自分は何がしたいのか?
 
何でもやってみよう、試してみよう、と思い、
 
色々チャレンジしてみました。
 
 
 
広島市の平和公園の案内ボランティアで、
 
修学旅行生や外国人に説明したり。
 
 
 
そんなことをしている中で、
 
結論が見えてきました。
 
 
 
自分が特徴だって楽しくできることって、
 
絵じゃないかな。

 
 
 
ケーキは、他の仕事をしながらでも家で作れるし。
 
卓球は、自分が楽しみながら一生できる感じがありません。
 
 

それで、卓球部をすぱっと止めて、
 
芸術大学を受験するために、
 
美術の予備校に行くことにしました。
 
 
 
親からは、予備校に行かせるお金はないよ、と言われ、
 
高校1,2年は近くのジャスコでアルバイトしました。
 
 
レジ打ちが得意で、最後の会計を閉めるのも
 
「こんなに早く覚えた子は初めてだ」
 
と言われました。
 
 
 
そうやって稼いだお金を、予備校の夏期講習の費用に当てました。
 
 
けれども、土日がバイトで埋まるので、休む日が無く、
 
デッサン中は、眠くて眠くて。
 
 
 
そんな、濃い日々を過ごしました。
 
 

高校1年では週3回、 
 
高校2年からは毎日、予備校に行きました。
 

 
高校が4時までで終わって、

みんなとコンビニエンスストアでおにぎりなどを食べて、
 
お金がある時は、おいしいお店で食べて、
 
5時~9時まで予備校でデッサンしていました。
 
 
月曜から金曜まで、そうしていました。
 
 
 
土日も予備校には行ってもよかったので、
 
出られる日は予備校に行き、
 
その後、映画を見て。
 
 
 

ちなみに、ジャスコのアルバイトは途中でやめました。
 
 
うちの学校はアルバイト禁止だったので、
 
たまたま担任の先生がジャスコに来て、
 
その3日後に
 
「久保、いちおう、バイトは認められてないんだ」
 
と呼び出されました。
 
 
それで、
 
「先生、もう辞めましたよ」
 
と言いました。
 
 
というのも、その時には、絵の道に没頭している私を見て、
 
親がお金を出してくれるようになったからです。
 
 
 
 
 
絵描きになりたい
 
 
 
予備校に通い始めましたが、
 
美術大学に受かるのが目的じゃなくて、
 
ずっと作れる人になりたい、と思っていました。
 
 
 
わたしが小学生のころから、
 
うちの母が「良い作品をたくさん見なさい、映画も見なさい」と
 
常に言ってくれていました。
 
 
  
それで、美術館もつれていってくれたし、
 
映画も中学校2年生から、たくさん見ていました。
 
 
 
街中にある学校だったので、
 
映画館は行き放題。
 
学校の帰りに、色んな映画館に行っては、
 
映画に没頭していました。
 
 
 

予備校に行きながら、映画を見続けました。
 
とにかく感覚を磨かないといけない、と思い、
 
たくさん映画を見て、
 
古本屋さんに行って買い込んできた本をも、
 
どんどん読みました。
 
 
 
サガンや三島由紀夫、寺山修司や、
 
いわゆる名作もの、パールバックの大地やヘミングウェイ、トルストイ、ドフトエフスキーなど。
 
 
 
登下校で2時間半も電車に乗るので、
 
ずっと読書していました。


 
高校になってからは、勉強も最低限やりましたが、
 
勉強だけやっていてもいかん。
 
読書、映画、絵を描く、
 
そういうことで自分を作ろう、と考えていました。
 

 
 
当時は、予備校の先生らや、大学の人たちの影響を受けたと思います。
 
この音楽聴いてみるか?とか、
 
よく、可愛がってもらいました。
 
 
 
音楽は、ロックにはまって、
 
中学2年生からデビッドボウイが好きになり、
 
デュランデュラン、ブライアンアダムス、クイーン、ボンジョビ、プリンス。
 
ビートルズやYMOも好きでした。
 
 

ロッキングオンという、渋谷陽一さんがやっている雑誌をよく読んでいました。
 
 
MTVというミュージックビデオを流す番組がちょうど始まって、
 
小林克彦のベストヒットUSAという、アメリカの音楽ランキング番組も
 
やっている時代でした。
  

 
予備校でデッサンばかりしていましたが、
 
そういう音楽なども、逃さず聴いていました。

ビデオ録画したり、LPをカセットテープに録音して、
 
デッサンしながら聴いていました。
 
 
 
 
寺本という、ギリシャ彫刻のような顔をした先生がユニークで、
 
広島女学院でも美術予備校でも、両方教えておられました。
  

進路相談のときに、うちの親が「広島の大学に行かせたい」と言うと、
 
「広島の大学に行っても何もならん。」
 
と寺本先生は、親を説得してくれたのです。
 
 
おかげでわたしは、東京や関西の芸術大学を
 
目指すことができたのです。
 
 
 
高校自体も、先進的な考え方を持っており、
 
受験に必要ない勉強はやらなくてよい、という方針でした。
 
 
 

高校3年のときは、平日は授業が2時間しかない日もよくありました。
 
数学など、共通一次試験(センターテスト)のみの科目は、
 
それ以上勉強する必要がなかったからです。
 
 
 
そんな日は、映画を見に行ったり、
 
理科室の石膏像をデッサンしたり。
 
像は、ヴィーナスやカラカラ帝、マルスなど。
 
私は、アポロという像が好きでした。

 
 
イスの位置が変わらないよう、マジックで印をつけ、3日間かけて仕上げるのです。
 
 
 
でも、デッサンよりも、色彩を使った課題が好きでした。
 
ポスターカラーを使って、春夏秋冬を表現しなさい、とか、
 
コンパスと直線を使って色彩構成しなさい、とか。
 
 
 
 
 
ムーンライダーズ 
  

 
1年間浪人した末、京都市立芸術大学に入学しました。
 
 
 
大学中に起こった変化は、洋楽を全く聴かなくなったことです。
 
 
それは「ムーンライダーズ」というグループの音楽が大好きになり、
 
他の音楽を聴かなくなったからです。
 
 
 
「ブラディーマリー」「鬼火」「いとこ同士」など。
 
 
この曲名は、ヌーベルバーグというフランス映画界のムーブメントがあり、
 
その時期の映画の題名と同じなのです。
 
どれもリアルで孤独な映画でした。 
 
 
 
他に、「スカーレットの誓い」「バラがなくちゃ生きていけない」という曲たち。 
 
 
 
すごく寂しい感じで、
 
ボーカルの鈴木慶一の声も良く、
 
私の持っている孤独感に、とてもしっくりきました。
 
 
 

なぜムーンライダーズを聴きだしたかというと、
 
YMOのメンバー・高橋幸弘が「ムーンライダーズがいい」と言っていて、
 
ずっと、どんな曲なんだろう、と思っていました。
 
 
 
予備校で浪人している先輩がいて、ゼルダやムーンライダーズなど、
 
音楽を回してみんなで聴いていました。
 
 
 
「9月の海はくらげの海」という曲も良くて、
 
媚びていない歌詞が気に入りました。
 
 
 
 
 
孤独感とムーンライダーズ
 
 
ちなみに、大学入学後は、京都で一人暮らしをするようになり、
 
恋愛を通して、気持ちが大きく上下をするのを体験しました。
 
 
特に、感情が下がったとき、
 
「自分は本当に、一人だし、孤独なんだな」
 
ということを、ますます感じるようになりました。
 
 
 
わたしは、一人暮らしが好きではありませんでした。
 
泥棒に入られたこともあるし。
 
なので2年目からは、お友達と一緒に暮らすようになりました。
 
 
 
実は、京都市立芸術大学は、わたしの第一志望ではありませんでした。
 
けれど、先生たちがとても可愛がってくれて、
 
カラオケや食事につれていってくれ、家にもお邪魔しました。
 
 
 
専攻だった陶芸も楽しく、
 
土という自然物を触るのも好きでした。
 
 
 
しかし、「人間は本質的には孤独だ」という思いは、
 
より大きくなっていきました。
 
 
 
その思いと、ムーンライダーズの歌詞は合っていたのです。

すごく寂しい感じの歌で、それが胸にしみる。
 
 
 
基本的にムーンライダーズが作る歌は、前提として、
 
人生はとても辛くて、本当に価値があるものは何も無い、
 
という絶望的な視点に立った上で、作られている。
 
 
「だから、俺たちはそれを乗り越えてやる」というわけでもなく、
 
それをそのまま、絶望を絶望のまま、出している感じがしました。

 
 
 
もうひとつ覚えているのが、「愛さずにはいられない」という映画。
 
 
  ・・・究極的には、人生に意味なんて無いのだから、
 
  この空虚さに耐えうるために、恋でもしていないと生きていられない。
 
 
そんな始まりの映画でした。
 
 
これにも、とても納得する感じがありました。
 
 
 
 
わたしは、何者かになれるだろうか
 
 
 
周りの学生たちを見回すと、その中には、
 
完成度が高く、きれいな作品を作る人もいる。
 
 
そのことが、気になりました。
 
 
 
おそらく、中学・高校・大学を通して、
 
「自分がどれほどの人間になれるのか?」
 
という思いが大きくなってきたのだと思います。
 
  
 
自分には、何が作れるだろうか?
 
芸術の道を絶対がんばりたい、という気持ちはあったけど、
 
自分の創作活動を支えるような、確固とした思想はありませんでした。
 
 
 
何か、真実と呼べるような、自分の根っことなるようなものが欲しい。
 
 
 
「自分にとっての真実を見つけよう。
 
 そうすることで、今の自分を抜け出て、素晴らしい作品も作れるかもしれない」
 
 
そういう思いを、強く抱いていました。
 
 
 
 
好きな作家と恋愛

 
その頃、ルーシー・リーや富本憲吉、バーナード・リーチという陶芸家が好きでした。 
 
あと、クリムト、モンドリアン、モジリアーニなど。
 
 
 
そういう人たちの作品が好きで、
 
自分でも、好きだなと思える作品を作りたい、と思っていました。
 
 
 
しかし、当時は恋愛がうまくいかない中で、
 
恋愛もテーマにしながら作品を作っていたのですが、
 
恋愛そのものが大失恋に終わりました。

 
 
 
 
超越していた仏像
 
 
 
大学の授業で、国宝や重要文化財などの、仏教美術を見に行くことになりました。
 
そのときに、圧倒的に美しい仏像たちと出会ったのです。
 
 
 
それらの仏像を見た時、
  
ルーシー・リーの作品を超えている、と思いました。
 
 
 
もちろん、ルーシーの陶器を見ると、美しいと思いましたし、
 
そこに宇宙の存在を感じました。
 
 
 
でも、東大寺戒壇院や法華寺の十一面観音像、
 
また、興福寺北円堂の無著・世親(むちゃく・せしん)像を見た時は、
 
 
「この人たちは私に何かを伝えようとしている。
 
 何か、メッセージを持って立っている。」
 
 
そう感じました。
 
 
 
そして、仏像を見たことで、
 
仏教の教えそのものにも興味が湧きました。
 

 
どんな思想が、この、人間では作り出せないような
 
圧倒的な作品を生み出したのか、 
 
どうしても、知りたくなったのです。
 
 

  
 

 
 
カテゴリ ”光雲が仏教を求めた理由”
 
→次ページ 「3、仏教と出会った」 
 
 
 
 


 

 

光雲のホームページは、こちらです。

koun18.com

koun18.com
このウェブサイトでは、「いつ死んでも大丈夫な人生」について、お伝えしています。