2015年8月3日月曜日

3、仏教と出会った


 
 
仏教の話に入る前に、
 
もう少し、人生についてわたしが感じていたことを、
 
お話させてください。 
 

 

死と孤独感
 
 
 

人生とは、なぜこんなに寂しいのか? なぜこんなに孤独なのか?
 
この人生というものと、どうやって折り合いをつけていけばいいのか?
 
 
これが、わたしにとって、とても大きなことでした。
 
   
 
 
ロダンとカミーユのこと
 
 
 
ところでみなさんは、「考える人」という彫刻を作った、
 
オーギュスト・ロダンという人を知ってますか?


そのロダンの女弟子で恋人の、カミーユ・クローデルという人がいます。
 
 
彼女自身が優れた作品を残しましたし、
 
「私がいなければ、ロダンはあれほど素晴らしい作品を残さなかっただろう」
 
というくらい、ロダンにも影響を与えたひとです。
 
 
 
カミーユ自身の作品は、ロダンのものより繊細な感じがしました。
 
 
このカミーユの一生を描いた映画が、わたしが大学1年のときに流行りました。
 
 
イザベル・アジャーニという、とてもきれいなフランスの女優が、
 
カミーユの役を演じました。
 

  
それは、芸術家であり、女性であり、愛に解決を求めた一人の人間の物語でした。
 
 
ロダンとカミーユは恋愛関係にありましたが、彼は絶対に奥さんとは別れない。
 
 
そしてカミーユは、狂気の淵へとはまり込んでゆき、
 
最後は精神病院へ入ることになりました。
 
 
 
 
 
 
何と折り合いをつけるのか?
 
 
  
このカミーユの弟、ポール・クローデルは有名な詩人でした。
 

ポールは若い時からキリスト教を信仰し、
 
安定して作品を作り、名声を得ました。
 
  
そこで、カミーユとポールの父が、カミーユに向かってこう言います。
 
 
  
「お前の弟は、神と折り合いをつけたんだ。
 
 お前は、何と折り合いをつけるつもりだ」


 
その頃にはカミーユは奇行に走っており、
 
とても派手な格好をしたりして、
 
精神的にアンバランスになっていました。
 
 
そこでお父さんが心配して、
 
上記のようなことを娘に話したのです。
 
 
 
このセリフを聞いたとき、わたしはどきっとしました。
 
 
「わたしは人生において、何と折り合いをつけられるのだろうか?」
 
 
と思いました。
 
 
あまりに色んなことを考えたら、
 
わたしは気が狂うのではないかと、
 
ちらっと考えたりしていました。
 
 
 
例えば、究極的に、人間が生きている意味とか、
 
人間の抱える、根源的な寂しさや孤独を見つめてしまったら。
 
 
 
実際にそういうふうにして、駄目になったり、自殺する芸術家もいました。
 
 

また一方で、そういうことに憧れている部分も、自分の中にありました。


 
 
なのでわたしは、「死の解決」だけに焦点を合わせていたわけではなく、
 
この孤独をどうすればよいのか?というのも、
 
大きなテーマでした。
 
 
 
 
 
解決策はあるのか
 
  
 
『トムソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインの作品に、
 
『不思議な少年』という小説があります。
 
 
 
その中に、
 
「本当に幸せになるというのは、死ぬか、気が狂うかである」
 
という言葉が出てくるのです。 

 

  
それを読んだとき、そうかもしれない、と思いました。
 
 
 
人生の根本的な問題には、
 
それくらいしか、解決策がないのではないか。
 
 
 
そう考えていました。
 
 
 
 

仏像と出会って

 
 
そんな時期に、芸術大学の仏教美術史演習という授業で、
 
美しい仏像たちを見たのです。 
 
  
 
東大寺戒壇院や法華寺の十一面観音像、
 
また、興福寺北円堂の無著・世親(むちゃく・せしん)像など。
 
 
 
 


法華寺
  
十一面観音像
 

 
 





興福寺北円堂
 
(上)無著像
(下)世親像
 

 
 

 

興福寺
 
阿修羅像
   

 
 
 
 
 
 
 


法華寺
 
月光菩薩像
 

  

 
 


 
 三十三間堂

千手観音立像
  

 
 
 
 

 
 
京都・大原 三千院

阿弥陀三尊坐像
  
 
 
  
 
 
 

 
神護寺

蓮華虚空蔵菩薩像
  
 
 


 
とても普通の芸術家が作ったものとは、思えませんでした。

 
 


 
美術作品と仏像のちがい 
 
 
それまで美術館にたくさん行って、
 
絵画や彫刻作品を、製作者側の視点で見る習慣が身についていました
 
 
 
仏像を作品として見たとき、
 
その異様なほどの美しさ、
 
また、深い意味があるように思いました
 
 
 
 
もちろん、仏像以外の作品にも、優れたものはあります。
 
 
アポロ像などの彫刻作品は美しいですし、

美術館や駅の前に銅像作品がよく立っていますが、
 
そういうものも、美しいと思います
 
 
 
けれども、それらの作品にないものを、
 
仏像に感じました
 
 

美しい以上の、溢れ出るスピリットが、そこにはありました。
 
 
 
作り手として仏像を見たときに、
 
 
「作者自身に、仏教に対する信仰や思いがあるから、
 
 これほどの力強さやコンセプトが生まれたのだろう」

 
 
と思いました。
 
 
 
だから、わたし自身、芸術を続けていくのならば、
 
そういうものを持たなければならない、
 
と感じました。
 
 
 

作る人になりたかったからこそ、
 
そういう視点で仏像を見ていました。 
 
 
 
自分にも仏教のスピリットのようなものが、体の中にあふれんばかりにあれば、
 
良い作品が作れるのではないか、と。
 
 
 
 

浄土真宗と出会う
 
 
 
仏教美術の先生は、お坊さんでもありました。 

 
そこで初めて、浄土真宗というものと出会いました。 

 

先生はこう言いました。
 
 
「仏教には色んな道があるけれども、
 
 目指すゴールは1つだけ」
 
 
また、こうも言うのです。
 
 
「自分で修行して悟る宗派もあって、
 
 それは自力の道と言う。
 
 ゴールまで自分で歩いていくようなもの。
 
 
 でも、浄土真宗は他力の道。
 
 新幹線に乗るみたいに速いよ」
 
 
 
それを聞いたわたしは、速いほうがいいな、と思いました。
 
 
 
はやく、あの美しい仏像を作った人たちと同じ境地になりたい、
 
そう思っていました。
 
 
 
 
仏教に救われる 
 
 
 
先生はわたしに、京都のあるお寺を紹介してくれました。
 
 

そこで毎週のようにそこに通って、
 
浄土真宗の教えを聞いては、
 
どうすれば救われるのだろうか?と、悩みました
 
 
 
その過程で、わたしは、自分の心がどのようなものか、
 
どれほど自己中心的な性質を持っているか、
 
ということを、知らされました
  
  
 
また、矛盾するようなことが分かってきました。
 
自分の中に「仏教を求めたくない自分」が存在することが、
 
はっきりと自覚されていったのです
 
 
 
救われたいと願ってお寺に通いつめているはずなのに、
 
求めれば求めるほど、
 
「求めたくない。仏教など、どうでもいい」
 
という自分を発見してゆくのでした
 
 
 
 
救われるとは、本当に「救われる」ことだったのです
 
 
 
そこに自分の力は何も無く、
 
悲しいことですが、救われたいと願う気持ちすら、自分の中には無い。
 
 
 
他力によって救われる教えとは、
 
まさに文字通り、自分以外の力によって救われるということ。
 
 
 
言い方を変えれば、
 
自分は全くの無力であるということ。
 
 
 
そんな自己矛盾を思い知らされる道だったのです。 
 
 
 
 
しかし同時に、
 
そんな自分が救われるということに、
 
感謝と懺悔をせずにおれなくなる。
 
 
 
 
 
浄土真宗で救われたわたしは、
 
その不思議なものを、頂きました。
 
 
 
これによって、わたしの人生は180度、転換しました。
 
 
 
それまで虚無的ですらあったのに、
 
人生にゆるぎない意味が生まれたのです。
 
 
 
仏像の素晴らしさに魅かれたのが始まりでしたが、思いがけずも、
 
子どものころから抱えていた、どうにもできない人生の問題が、
 
解決されてしまったのです。
 
  
 
 
この話は、またいつか、くわしく書きたいと思います
 
 
 
 
こちらは、わたしに浄土真宗の教えを説いてくださった方について、
 
ブラジルの本願寺別院で話した動画です。
 
 
 
 
 
 
さて次は、仏教の基本を、お話したいと思います
 

 
 
 

  
 

 
 
カテゴリ ”光雲が仏教を求めた理由”
 
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