2015年8月5日水曜日

1、お城を出てみて、出会ったもの。

  
 
父王の配慮によって、お城の中で美しいものばかり見て
 
育っていたシッダールタ。
 
 
 
しかしある日、お城の門を出た彼は、
 
それまで見たことがないものを目にします。
 
 
 
 
 

 
 


四門出遊(しもんしゅつゆう)
 
 
シッダールタが住んでいたお城には、
 
東西南北にそれぞれ1つずつ、門がありました。
 
 
 
シッダールタが東門から出てみると 
 
背中が曲がり、髪が真っ白で、顔も体もシワばかりの人間を目にしました。
 
従者に、
 
「あれは何か?」
 
と聞くと、
 
「あれは老人といいます。誰でも年をとると、あのようになります」
 
と答えました。
  
 
それを聞いたシッダールタは、
 
老いという苦しみを知り、それ以上出かける気になれず、お城に戻ったのでした。
 
 
 
 
 
次に南の門から出てみると、
 
顔をゆがめ、もがいている人間を見かけます。

 
従者に、
 
「あれは?」
 
と聞くと、
 
「あれは病人でございます。誰でも病気にかかります」
 
と答えました。
  
 
シッダールタはそれを聞き、悲痛な気持ちになり、
 
またしてもお城に戻りました。
 
 
 
 
また西の門から出た時は、
 
大勢の人々が泣きながら、横になって動かない人間を囲んでいるのを、目にしました。

 
従者に、
 
「あの者たちは、何を囲んでいるのか?」
 
と聞くと、
 
「あれは死者でございます。誰でも最後は死にます」
 
と答えました。
  
 
シッダールタはそれを聞き、「では、私も死者というものになるのか」と問います。
 
従者は「死を避けられる者はおりません」と答えました。
 
 
死を知って憂鬱な気持ちになった王子は、お城に戻りました。
 




最後に、北の門から出ると、
 
簡素な布だけを身につけた人間を見かけました。
 
 
身なりだけを見れば貧しいはずですが、
 
その顔は満ち足りているように見えます。

 
王子が従者に、
 
「あれは、何者か?」
 
と聞くと、
 
「あれは修行僧でございます。悟りを求めて出家した者です」
 
と答えました。
 
 
それを聞いたシッダールタは、
 
「これこそ私の求めていた道だ!」
 
と、出家することを決心しました。
 
 
 
 
 
 

四苦八苦
 
 
このシッダールタ王子のお話は、
 
人生でかならず起こる四苦を表しています。
 
 
みなさんは、「四苦八苦」という言葉を知っているでしょう。
 
 
苦しいことがたくさんある時、
 
「四苦八苦してるわ」
 
などと言います。
 
 
 
実はこれ、もとは仏教で使われていた言葉です。
 
数字のは、それぞれ苦しみの種類を表しています。
 
 
シッダールタは四門出遊を通して、
 
どうしても避けられない苦しみがある、
 
と気づいたのです。
  
 
 

 
ではこれから、四苦八苦をマンガで見ていきます。
 
 
 
 
 
 

 
 

 
 
1 生苦 
 
 
これは、生まれてくる時の苦しみです。
 
赤ちゃんが母親のお腹から生まれてくる時、

大変な苦しみを味わうのです。
 
 
その苦しみのために、自分が前世で何であったかを忘れる、
 
と、仏教では言われています。
 
 
  

 
 
2 老苦 


これは、年をとり、身体や頭脳が衰えていく苦しみです。
 
誰しもが、老いから逃げることはできません。
 
 
最近は若さを保つために、健康法が注目され、
 
健康に関する本も、大量に出版されています。
 
 
しかし、若い時代の肌ツヤや筋肉、頭の回転をそのまま維持することは無理です。

自分の容姿に老いを感じる時、なんとも言えず寂しくなります。


 
 
 

 
 
3 病苦 
 
 
とても健康な人でも、いつ大きな病気にかかるか分かりません。
 
あんなに元気だったのに、大病でやせ衰えて……という例は、
 
いくらでもあります。
 
 
私も、急に病に倒れる可能性があるのです。
 
 

 
 
 

 
 


4 死苦


どんな美人も、大金持ちも、いつか必ず死ぬ日が来ます。
 
しかも、その死ぬ日がいつくるのか、予想がつきません。
 
 
事故で死ぬ人も、その日の朝、まさか自分が死ぬとは思っていません。
 
若いからといって、老人より長生きできるとは限りません。
 
 
いつ命が切れるかは、誰にも分からないのです。
 
 
 
 


※「光雲な毎日」という本の中で、
 
四苦八苦の「八苦」までを、説明しています。
 
(残り4つの「求不得苦」「愛別離苦」「怨憎会苦」「五蘊盛苦」)
 
 
 
立ち読みページの「第三章」で全て読めますので、
 
興味のある方は読んでみてください。
 
  
 
立ち読みページ「光雲な毎日」
http://koun18book1.blogspot.jp/
 



2015年8月4日火曜日

3、農民・虫・鳥に見た、この世の残酷さ。

  
  
少年シッダールタの鋭い感受性は、 
 
小さなことから、世の残酷さを見抜くことになります。
 
 
 


 
 
 




王子が少年だった頃の話です。
 
ある日、シッダールタの国で農耕祭が行なわれました。
 
農産物の豊作を願うため、催されたお祭りです。
 
 
 
シッダールタの前で、農民が畑を耕していました。
 
 
 
農民がくわで土を掘り起こすと、虫が出てきました。

するとすぐ、小鳥が飛んできて、その虫を捕まえて食べてしまいました。
 
さらに上から、大きなワシがその小鳥を狙って、襲いかかっていったのです。
 
 
 
それを見たシッダールタは、憂鬱な気持ちになりました。
 
 
 
「なぜ、生きものは殺し合わないといけないのだろうか」
 
 
 
殺し合わないといけないという言葉は、
 
現代の私たちにとって、ピンと来ないかもしれませんね。
 
 
 
しかし、毎日食べている物を、思い浮かべてみてください。
 
お米、味噌汁、肉、魚、野菜。
 
日々の食事の中に、たくさんの命があることに気がつくでしょうか。
 
 
 
食材はスーパーで買えます。
 
 
 
けれども自分自身では、牛や豚を殺して解体したりはしません。
 
誰か他の人が、私のために動物を絶命させ、切り分けてくれているわけです。
 
お米や野菜が育つにも、多くの虫が殺虫剤などで死んでいるのです。
 
 
 
事実として、私たちは他の命をとることで、生きています。
 
 
 
虫、鳥、ワシの命の奪い合いを見たシッダールタは、
 
そこに生命の残酷さを発見して、
 
大きな憂いを感じたのでした。
 
 
 
 
そして、またある日、お城の門を出たシッダールタは、
 
見たことがないものを目にすることになります。
 


 

  
 

 
 
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2、文武両道、才能豊かなシッダールタ王子

 
 
  
 





「光雲な毎日」より)
 
 
  
  

シッダールタはとても学問に優れていて、
 
武術(スポーツや武道)も、飛び抜けていました。
 
 

さらに、美しい顔立ちであったそうで、
 
ヤショーダラ姫という美しい女性を、妃として迎えました。
 
そして、かわいい子どもにも恵まれました。
 
 
 
これを現代的に言うと、頭も良くてスポーツ万能でハンサム。
 
しかも、その国で一番のお金持ちの家系。
  
さらには綺麗な女性と結婚して、健康な赤ちゃんも生まれた。
 
 
 
今の現代人が「こうなりたいな」と思うものの全てを、
 
シッダールタは、すでに持っていたわけです。
 
 
 
とても恵まれています。
 
才能も容姿も家柄も、そして家族までも。
 
 
 
 

またシッダールタの住居も素晴らしく、
 
季節ごとに、違う宮殿に住んでいました。
 
 
冬の宮殿、夏の宮殿、春の宮殿と、
 
季節が変わるごとに、 大邸宅を使い分けていたのです。
 

 
宮殿には優雅な音楽まで流れ、美女たちの踊りを楽しむことができました。
 
 
 
 
 
ちなみに、これには、父であるスッドーダナ王の配慮もあったと言われています。
 
 
 
というのも、シッダールタの母・マーヤー夫人は、
 
彼を出産した後、すぐに亡くなっており、
 
マーヤーの妹がシッダールタを育てました。
 
 
  
 
 
また、シッダールタが生まれてすぐ、
 
山中に住む仙人が訪れ、王子の顔を見てこんな予言をしました。
 
 
 
「この子には、2つの将来が考えられます。
 
 1つは、世界を統一する王になる道。
 
 もう1つは、出家して悟りを開き、覚者となる道です」
 
 
 
これを聞いた父王・スッドーダナは、
 
母を亡くした王子の悲しみを癒すため、
 
また出家ではなく、世界の王になってもらうため、
 
シッダールタの目に、楽しいもの・美しいものだけを見せるよう、努めたわけです。


 
 
 
けれども、恵まれていたはずのシッダールタは、
 
「これらは本当の幸せではないのでは?」
 
と感じていました。
 
 
 
 
 
これは彼が少年の時から感じていたことと、大きく関係します。
 
 
次ページでは、少年時代のエピソードから見ていきます。
 
 

 
 
 
カテゴリ ”仏教のはじまり お釈迦さまの誕生~お悟り”
 
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1、インドの王子さまに生まれて。

  
 
ではこれから、仏さまのお話をしていきます。
 
 
しかしその前に、まず「仏さま」といわれても、
 
仏とはどんな意味か、分からないという人も多いかと思います。
 
 
 
 「『あの人は死んで仏さまになられた』と言うから、
 
   死んだ人のことを仏さまと言うんでしょ?」
 
 
そう思っている人も、おられるでしょう。
 
 
でも、死んだらだれでも仏になれるわけではないのです。
 
仏教の教えを聞いて、その道を歩んだ人が、仏さまになれます。
 
 
 
それでは、「仏になる」とは、どういうことでしょうか? 
 
 
これを理解するためにも、
 
仏さまとなられたお釈迦さまについて、見ていきましょう。
 
 
 
 

 
 


 
  
 

お釈迦さまは、今から2500年前の北インドの国に、
 
王子さまとして生まれました。
 
 
お名前を、ゴータマ・シッダールタと言います。
 
 
シッダールタが生まれたのは、シャカ族という小さな国で、
 
お米のとれる豊かな国であったと言われています。
 
 
 
お釈迦さまのお誕生日は四月八日です。
  
この日を花祭りとか、灌仏会(かんぶつえ)と言って、どこのお寺でもお祝いします。
  
 
 
お釈迦さまが生まれたのは、ルンビニー園という花園。

 
その時、空から甘い雨(甘露・かんろと言います)が降りそそいだ、と言い伝えられています。
 
 
 
そのため花祭りでは、お花で飾られた小さなお堂を作り、
 
お釈迦さまの像をその中に置いて、
 
その像に甘いお茶をかけます。 




またお釈迦さまは生まれてすぐに、
 
七歩も歩いたという伝承があります。
 
 
普通の赤ちゃんだったら、一歩も歩けませんよね。
 
 
なぜ七歩かというと、
 
仏教では、迷いの世界のことを六道と言います。
 
 
この6種類は、
 

・地獄道、じごく
 
・餓鬼道、がき
 
・畜生道、ちくしょう(動物。)
 
・修羅道、しゅら(争いの絶えない世界)
 
・人間、にんげん ← 私たちはココ
 
・天上、てんじょう
 
 
 
これら苦しみの世界を超えた世界に出た、
 
という意味の七歩です。


 
 
このように、お釈迦さまが生まれたことを祝うのですが、
 
もしかしたら、これを聞いて、
 
「お釈迦さまは、生まれた時点で仏さまだった(悟っていた)んだな」
 
と思われるかもしれません。
 
 
 
しかし実際は、お釈迦さまも、
 
生まれたときから仏さまだったわけではないのです。
 
 

 
 
それを次のページから見ていきましょう。


 

  
 

 
 
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2015年8月3日月曜日

3、仏教と出会った


 
 
仏教の話に入る前に、
 
もう少し、人生についてわたしが感じていたことを、
 
お話させてください。 
 

 

死と孤独感
 
 
 

人生とは、なぜこんなに寂しいのか? なぜこんなに孤独なのか?
 
この人生というものと、どうやって折り合いをつけていけばいいのか?
 
 
これが、わたしにとって、とても大きなことでした。
 
   
 
 
ロダンとカミーユのこと
 
 
 
ところでみなさんは、「考える人」という彫刻を作った、
 
オーギュスト・ロダンという人を知ってますか?


そのロダンの女弟子で恋人の、カミーユ・クローデルという人がいます。
 
 
彼女自身が優れた作品を残しましたし、
 
「私がいなければ、ロダンはあれほど素晴らしい作品を残さなかっただろう」
 
というくらい、ロダンにも影響を与えたひとです。
 
 
 
カミーユ自身の作品は、ロダンのものより繊細な感じがしました。
 
 
このカミーユの一生を描いた映画が、わたしが大学1年のときに流行りました。
 
 
イザベル・アジャーニという、とてもきれいなフランスの女優が、
 
カミーユの役を演じました。
 

  
それは、芸術家であり、女性であり、愛に解決を求めた一人の人間の物語でした。
 
 
ロダンとカミーユは恋愛関係にありましたが、彼は絶対に奥さんとは別れない。
 
 
そしてカミーユは、狂気の淵へとはまり込んでゆき、
 
最後は精神病院へ入ることになりました。
 
 
 
 
 
 
何と折り合いをつけるのか?
 
 
  
このカミーユの弟、ポール・クローデルは有名な詩人でした。
 

ポールは若い時からキリスト教を信仰し、
 
安定して作品を作り、名声を得ました。
 
  
そこで、カミーユとポールの父が、カミーユに向かってこう言います。
 
 
  
「お前の弟は、神と折り合いをつけたんだ。
 
 お前は、何と折り合いをつけるつもりだ」


 
その頃にはカミーユは奇行に走っており、
 
とても派手な格好をしたりして、
 
精神的にアンバランスになっていました。
 
 
そこでお父さんが心配して、
 
上記のようなことを娘に話したのです。
 
 
 
このセリフを聞いたとき、わたしはどきっとしました。
 
 
「わたしは人生において、何と折り合いをつけられるのだろうか?」
 
 
と思いました。
 
 
あまりに色んなことを考えたら、
 
わたしは気が狂うのではないかと、
 
ちらっと考えたりしていました。
 
 
 
例えば、究極的に、人間が生きている意味とか、
 
人間の抱える、根源的な寂しさや孤独を見つめてしまったら。
 
 
 
実際にそういうふうにして、駄目になったり、自殺する芸術家もいました。
 
 

また一方で、そういうことに憧れている部分も、自分の中にありました。


 
 
なのでわたしは、「死の解決」だけに焦点を合わせていたわけではなく、
 
この孤独をどうすればよいのか?というのも、
 
大きなテーマでした。
 
 
 
 
 
解決策はあるのか
 
  
 
『トムソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインの作品に、
 
『不思議な少年』という小説があります。
 
 
 
その中に、
 
「本当に幸せになるというのは、死ぬか、気が狂うかである」
 
という言葉が出てくるのです。 

 

  
それを読んだとき、そうかもしれない、と思いました。
 
 
 
人生の根本的な問題には、
 
それくらいしか、解決策がないのではないか。
 
 
 
そう考えていました。
 
 
 
 

仏像と出会って

 
 
そんな時期に、芸術大学の仏教美術史演習という授業で、
 
美しい仏像たちを見たのです。 
 
  
 
東大寺戒壇院や法華寺の十一面観音像、
 
また、興福寺北円堂の無著・世親(むちゃく・せしん)像など。
 
 
 
 


法華寺
  
十一面観音像
 

 
 





興福寺北円堂
 
(上)無著像
(下)世親像
 

 
 

 

興福寺
 
阿修羅像
   

 
 
 
 
 
 
 


法華寺
 
月光菩薩像
 

  

 
 


 
 三十三間堂

千手観音立像
  

 
 
 
 

 
 
京都・大原 三千院

阿弥陀三尊坐像
  
 
 
  
 
 
 

 
神護寺

蓮華虚空蔵菩薩像
  
 
 


 
とても普通の芸術家が作ったものとは、思えませんでした。

 
 


 
美術作品と仏像のちがい 
 
 
それまで美術館にたくさん行って、
 
絵画や彫刻作品を、製作者側の視点で見る習慣が身についていました
 
 
 
仏像を作品として見たとき、
 
その異様なほどの美しさ、
 
また、深い意味があるように思いました
 
 
 
 
もちろん、仏像以外の作品にも、優れたものはあります。
 
 
アポロ像などの彫刻作品は美しいですし、

美術館や駅の前に銅像作品がよく立っていますが、
 
そういうものも、美しいと思います
 
 
 
けれども、それらの作品にないものを、
 
仏像に感じました
 
 

美しい以上の、溢れ出るスピリットが、そこにはありました。
 
 
 
作り手として仏像を見たときに、
 
 
「作者自身に、仏教に対する信仰や思いがあるから、
 
 これほどの力強さやコンセプトが生まれたのだろう」

 
 
と思いました。
 
 
 
だから、わたし自身、芸術を続けていくのならば、
 
そういうものを持たなければならない、
 
と感じました。
 
 
 

作る人になりたかったからこそ、
 
そういう視点で仏像を見ていました。 
 
 
 
自分にも仏教のスピリットのようなものが、体の中にあふれんばかりにあれば、
 
良い作品が作れるのではないか、と。
 
 
 
 

浄土真宗と出会う
 
 
 
仏教美術の先生は、お坊さんでもありました。 

 
そこで初めて、浄土真宗というものと出会いました。 

 

先生はこう言いました。
 
 
「仏教には色んな道があるけれども、
 
 目指すゴールは1つだけ」
 
 
また、こうも言うのです。
 
 
「自分で修行して悟る宗派もあって、
 
 それは自力の道と言う。
 
 ゴールまで自分で歩いていくようなもの。
 
 
 でも、浄土真宗は他力の道。
 
 新幹線に乗るみたいに速いよ」
 
 
 
それを聞いたわたしは、速いほうがいいな、と思いました。
 
 
 
はやく、あの美しい仏像を作った人たちと同じ境地になりたい、
 
そう思っていました。
 
 
 
 
仏教に救われる 
 
 
 
先生はわたしに、京都のあるお寺を紹介してくれました。
 
 

そこで毎週のようにそこに通って、
 
浄土真宗の教えを聞いては、
 
どうすれば救われるのだろうか?と、悩みました
 
 
 
その過程で、わたしは、自分の心がどのようなものか、
 
どれほど自己中心的な性質を持っているか、
 
ということを、知らされました
  
  
 
また、矛盾するようなことが分かってきました。
 
自分の中に「仏教を求めたくない自分」が存在することが、
 
はっきりと自覚されていったのです
 
 
 
救われたいと願ってお寺に通いつめているはずなのに、
 
求めれば求めるほど、
 
「求めたくない。仏教など、どうでもいい」
 
という自分を発見してゆくのでした
 
 
 
 
救われるとは、本当に「救われる」ことだったのです
 
 
 
そこに自分の力は何も無く、
 
悲しいことですが、救われたいと願う気持ちすら、自分の中には無い。
 
 
 
他力によって救われる教えとは、
 
まさに文字通り、自分以外の力によって救われるということ。
 
 
 
言い方を変えれば、
 
自分は全くの無力であるということ。
 
 
 
そんな自己矛盾を思い知らされる道だったのです。 
 
 
 
 
しかし同時に、
 
そんな自分が救われるということに、
 
感謝と懺悔をせずにおれなくなる。
 
 
 
 
 
浄土真宗で救われたわたしは、
 
その不思議なものを、頂きました。
 
 
 
これによって、わたしの人生は180度、転換しました。
 
 
 
それまで虚無的ですらあったのに、
 
人生にゆるぎない意味が生まれたのです。
 
 
 
仏像の素晴らしさに魅かれたのが始まりでしたが、思いがけずも、
 
子どものころから抱えていた、どうにもできない人生の問題が、
 
解決されてしまったのです。
 
  
 
 
この話は、またいつか、くわしく書きたいと思います
 
 
 
 
こちらは、わたしに浄土真宗の教えを説いてくださった方について、
 
ブラジルの本願寺別院で話した動画です。
 
 
 
 
 
 
さて次は、仏教の基本を、お話したいと思います
 

 
 
 

  
 

 
 
カテゴリ ”光雲が仏教を求めた理由”
 
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2、芸術との格闘

 
 

小学校6年生・正月 
 
 
 
絵も本も好きだった、子ども時代
 
 
 
小さい頃から、絵を描いたり本を読んだりするのが、大好きでした。
 
お母さんによると、外に遊びに行っても、走って帰ってきて、
 
家で本を読んでいるか、絵を描いていたそうです。
 

 
青いクッキーの缶にクレヨンが入っており、よく絵を描いていました。
 
 
 
お姉ちゃんの木の机の裏や内側に、
 
油性マジックで「あいうえお」「かきくけこ」と、
 
えんえん、ひらがなを書いたりもしました。
 
 
 
そんなことをすれば、怒られそうなものですが。 
 
 
 
でも、怒られた記憶がまったく無く、
 
のびのびとマジックで書いていたようです。
 
 
 
背中からあたたかい陽の光が差していて、
 
とても平和な気持ちで書いていたのを、覚えています。
 
 

 
 
また、家には大人の腰くらいの高さの本棚があり、
 
世界名作童話シリーズが並べてあって、
 
イワンのバカ、とか、イソップ物語とか。
 
 
そういう本を読むのも好きでした。
 

 
 
描いていた絵で思い出すのは、
 
りんごの木の横におねえちゃんを描いて、
 
またりんごの木を描いて、
 
お母さんやお父さんを描いて。
 
 
 
ひらがなが書けるようになったら、
 
「りんごがたべたいなあ」
 
という文字を入れたりもしました。
 
 


 
本は、「大草原の小さな家」が大好きでしたし、
 
寝る前にお母さんが「若草物語」を、すこしずつ読んでくれるのも、とても好きでした。
 
 
 
その中によく出てくる、
 
「植物を植える→実を収穫する→お鍋でぐつぐつ料理を作る」
 
みたいなお話が、お気に入りでした。
 
 

自分でも、犬やうさぎやネコを登場人物にして、
 
家族が畑を作り、収穫し、お母さんが料理してる横でよだれをたらす子どもがいる、
 
みたいな絵を、小学校低学年のころに描いていました。

 
 

「裕子創作物語」とノートに題をつけて、
 
『しいたけ山のしいたけたち』など、
 
自分で物語を作っていました。
 
 

  

またその頃、貸し本屋というのがあり、
 
10円とか20円で、1冊マンガが借りれました。
 
 
 
愛読していたのは、
 
「なかよし」「りぼん」という少女雑誌。
 
 
 
マンガを読んでいましたが、
 
コピーするように真似して描いたりは、あまりしませんでした。
 
それよりは、自分で物語を作る方が好きでした。
 
 
 
 
 
 
 
映画を好きになる
 
 
 
小学校高学年になると、ぐっと大人びて、
 
「ロードショー」「スクリーン」といった、映画雑誌を見るようになりました。
 
 
 
その頃の映画は、例えば『カリギュラ』など、
 
古代ローマ皇帝の残虐な話が描かれたものが流れたりしました。
 
 

映画雑誌には、マットディロンやトムクルーズが出ていました。

 
 
父が夜テレビでよく映画を見ていて、
 
「太陽がいっぱい」という名作映画を覚えています。
 
 
 
とてもハンサムなアランドロンが主役でした。
 
 
 
貧しい青年が成功を夢見て、金持ちの友人を殺し、
 
彼の恋人まで奪い取り、
 
しかも殺しがばれないよう、その友人のお金を使い続ける。
 
 
 
そんな悪党の話なのですが、
 
アランドロンがかっこう良くてすてきなので、
 
つい、捕まらないでほしい、と思ってしまいました。
 
 
 
最後にアランドロンが『すべて、うまくいった』と思った瞬間に、
 
死体が見つかって捕まってしまうのです。
 
 
 
そうやって映画が好きになり、
 
小学校5,6年のときには、
 
お年玉で映画音楽のLP(レコード)を買ったりしました。
 
 
 

 
 
お菓子作りに夢中になる 
 
 
 
小学校4年くらいから、お菓子作りに熱中しました。
 
最初はゼリーから始めて、
 
レモンゼリーを作りました。
 
 
 
それから、ありとあらゆる果汁を使って、
 
みかん、いちごなどのフルーツ、
 
ミルクプリンやババロアも作りました。
 
 
 
作ったら、お姉ちゃんが喜んで食べてくれました。
 
  
 
一番人気があったのは、ココアマシュマロプリンで、
 
ココアを混ぜて作ったミルクプリンに、
 
溶けかけのマシュマロを入れるのです。
 
 
  
 
一人部屋をもらって
 
 
 
4年生の秋に、自分の部屋をもらいました
 
わが部屋ができたのは、うれしかったです。
 
 
 
それはもう、自慢の部屋で、
 
そのころの田舎(広島県可部町)にしてはとても豪華で、
 
小さなシャンデリアまでありました。
 
 
 
壁紙やカーテンもおしゃれで、白に淡いオレンジの花柄。
 
とても日当たりも良く、
 
すごく好きでした
 
 

しかし一人部屋で一人で寝ることになったため、
 
夜、寝るのが怖かったです。
 
 
 
それまで一人で寝たことが無かったので、
 
「自分は一人なんだなあ」
 
ということを、夜、感じるようになりました
 
 


それまでは、人の気配がたくさんある長屋に住んでいたので、
 
大きな変化でした。
 
  

 
 
 
さらにお菓子作りに没頭 
 

 
お菓子つくりはどんどん熱中して、
 
5年生の時には、オーブンを使い出しました。 

 
 
もう毎日、何か作っていました。
 
 
 
お菓子の本を見るのも好きで、
 
特に「マドモアゼルいくこ」という、
 
武蔵野美術大学を出てフランスに住んだこともある人の本が、
 
お気に入りでした。
 
 

その本は、イラストと一緒にお菓子の作り方が書いてあり、
 
フランスにちなんだエッセイもついてる。
 
 
物語に出てくるお菓子のページもあって、
 
赤毛のアンのパイとか、 
 
写真は無かったんだけど、それを読むのが好きでした。
 
 
 
そのころ私は、将来はケーキを作る人になろうかな、
 
と思っていました。
 
 
 
イラストを描いて、レシピを書いて。
 
 
 
6年生のときの卒業アルバムには、
 
大学は家政科に進んで、ケーキを作る人になりたい、
 
と書いたはずです。
 
 
 
 
ありとあらゆる友達の誕生日に、ケーキを作っていました。 
 
 
 
 
 
絵を描く人になろうかな
 
 
 
絵を描くのが好きなのは続いていて、
 
中学校の頃は、絵をよく描いていました
 
 
 
自分の顔や人の顔をよく描いていて、
 
えんぴつでこすったりして、
 
こすったら影ができて、
 
そうやって肖像画を描いたりしていました。 
 

 
美術の先生には、
 
「フジタみたいだね」(戦前よりフランスのパリで活躍した、レオナルド藤田嗣治のこと)
 
と言われたことがあり、そのときは誰だろうなーと思ってましたが。 
 
 
 
そうやって、こすって描くのが好きで、
 
人の顔とか、中学校2年生から好きになったデビッド・ボウイの顔とか、
 
写真を見ながら、鉛筆でこすってスケッチブックに描いていました。
  
 
 
以前から、自分は絵が得意なんだな、と思っていました。
 
体育も得意でしたが、自分よりも足の速い子はいました。
 
 
 
でも、小学校のころから、
 
絵画コンクールでは、毎回優秀賞をもらっていました。
 
 
 
勉強もできると思っていましたが、
 
お受験をした中学に入ると、
 
各小学校のトップ1、2の子たちばっかりでした。
 
 
 
でも、中学校でも、絵は上手なほうでした。
 
なので、おれ、美術いけるんじゃないか?
 
と、思っておりました。
 
 
 
描いている時間も、たのしかったです。
 
 
 
中学校で覚えているのは、
 
「対になる2つの言葉を、画面の中に構成しなさい」
 
という課題。 
 

 
ほとんどの子は、悲しみと喜びなどを、
 
画面の「右と左」「上と下」に描いていました。
 
 
 
けれども私は、「手前と奥」に描きました。 
 
そんな風に描いている子は誰もいませんでした。
  
 
 
奥にあるのは、辛さや悲しさ。
 
その手前に、ダイヤモンドのような光がある。
 
 

その光と悲しさの間には、
 
画面いっぱいに金網のような、柵(さく)を描きました。
 
 
 
 
 
 
自分の道を探した高校時代
 
 
 
高校は、そのまま広島女学院の高校に進みました。
 
 
絵は、文化祭のポスター作りコンクールで、 
 
ギリシャ神話が好きな時期だったので、
 
空を飛んでいるペガサスを描いたりしました。
 
 
 
英語が盛んな学校で、学年の4分の1がアメリカにホームステイに行っていました。
 
 
1ヶ月前後、アメリカに行く子が多かったですが、
 
学年に1人か2人は、1年間留学していました。
 
 

わたしは、当時はそこまで海外に興味はなかったのですが、
 
誰にもできないことがしたい、とは
 
思っていました。
 
 
 
部活動では卓球をしており、
 
一時期は「プロの卓球選手になって、日本たばこに入団するぞ」と
 
燃えておりました。
 
 
 
しかし、学年が上がるにつれて
 
自分よりも上手い子が出てきました。
 
 
 
そこで、自分は何がしたいのか?
 
何でもやってみよう、試してみよう、と思い、
 
色々チャレンジしてみました。
 
 
 
広島市の平和公園の案内ボランティアで、
 
修学旅行生や外国人に説明したり。
 
 
 
そんなことをしている中で、
 
結論が見えてきました。
 
 
 
自分が特徴だって楽しくできることって、
 
絵じゃないかな。

 
 
 
ケーキは、他の仕事をしながらでも家で作れるし。
 
卓球は、自分が楽しみながら一生できる感じがありません。
 
 

それで、卓球部をすぱっと止めて、
 
芸術大学を受験するために、
 
美術の予備校に行くことにしました。
 
 
 
親からは、予備校に行かせるお金はないよ、と言われ、
 
高校1,2年は近くのジャスコでアルバイトしました。
 
 
レジ打ちが得意で、最後の会計を閉めるのも
 
「こんなに早く覚えた子は初めてだ」
 
と言われました。
 
 
 
そうやって稼いだお金を、予備校の夏期講習の費用に当てました。
 
 
けれども、土日がバイトで埋まるので、休む日が無く、
 
デッサン中は、眠くて眠くて。
 
 
 
そんな、濃い日々を過ごしました。
 
 

高校1年では週3回、 
 
高校2年からは毎日、予備校に行きました。
 

 
高校が4時までで終わって、

みんなとコンビニエンスストアでおにぎりなどを食べて、
 
お金がある時は、おいしいお店で食べて、
 
5時~9時まで予備校でデッサンしていました。
 
 
月曜から金曜まで、そうしていました。
 
 
 
土日も予備校には行ってもよかったので、
 
出られる日は予備校に行き、
 
その後、映画を見て。
 
 
 

ちなみに、ジャスコのアルバイトは途中でやめました。
 
 
うちの学校はアルバイト禁止だったので、
 
たまたま担任の先生がジャスコに来て、
 
その3日後に
 
「久保、いちおう、バイトは認められてないんだ」
 
と呼び出されました。
 
 
それで、
 
「先生、もう辞めましたよ」
 
と言いました。
 
 
というのも、その時には、絵の道に没頭している私を見て、
 
親がお金を出してくれるようになったからです。
 
 
 
 
 
絵描きになりたい
 
 
 
予備校に通い始めましたが、
 
美術大学に受かるのが目的じゃなくて、
 
ずっと作れる人になりたい、と思っていました。
 
 
 
わたしが小学生のころから、
 
うちの母が「良い作品をたくさん見なさい、映画も見なさい」と
 
常に言ってくれていました。
 
 
  
それで、美術館もつれていってくれたし、
 
映画も中学校2年生から、たくさん見ていました。
 
 
 
街中にある学校だったので、
 
映画館は行き放題。
 
学校の帰りに、色んな映画館に行っては、
 
映画に没頭していました。
 
 
 

予備校に行きながら、映画を見続けました。
 
とにかく感覚を磨かないといけない、と思い、
 
たくさん映画を見て、
 
古本屋さんに行って買い込んできた本をも、
 
どんどん読みました。
 
 
 
サガンや三島由紀夫、寺山修司や、
 
いわゆる名作もの、パールバックの大地やヘミングウェイ、トルストイ、ドフトエフスキーなど。
 
 
 
登下校で2時間半も電車に乗るので、
 
ずっと読書していました。


 
高校になってからは、勉強も最低限やりましたが、
 
勉強だけやっていてもいかん。
 
読書、映画、絵を描く、
 
そういうことで自分を作ろう、と考えていました。
 

 
 
当時は、予備校の先生らや、大学の人たちの影響を受けたと思います。
 
この音楽聴いてみるか?とか、
 
よく、可愛がってもらいました。
 
 
 
音楽は、ロックにはまって、
 
中学2年生からデビッドボウイが好きになり、
 
デュランデュラン、ブライアンアダムス、クイーン、ボンジョビ、プリンス。
 
ビートルズやYMOも好きでした。
 
 

ロッキングオンという、渋谷陽一さんがやっている雑誌をよく読んでいました。
 
 
MTVというミュージックビデオを流す番組がちょうど始まって、
 
小林克彦のベストヒットUSAという、アメリカの音楽ランキング番組も
 
やっている時代でした。
  

 
予備校でデッサンばかりしていましたが、
 
そういう音楽なども、逃さず聴いていました。

ビデオ録画したり、LPをカセットテープに録音して、
 
デッサンしながら聴いていました。
 
 
 
 
寺本という、ギリシャ彫刻のような顔をした先生がユニークで、
 
広島女学院でも美術予備校でも、両方教えておられました。
  

進路相談のときに、うちの親が「広島の大学に行かせたい」と言うと、
 
「広島の大学に行っても何もならん。」
 
と寺本先生は、親を説得してくれたのです。
 
 
おかげでわたしは、東京や関西の芸術大学を
 
目指すことができたのです。
 
 
 
高校自体も、先進的な考え方を持っており、
 
受験に必要ない勉強はやらなくてよい、という方針でした。
 
 
 

高校3年のときは、平日は授業が2時間しかない日もよくありました。
 
数学など、共通一次試験(センターテスト)のみの科目は、
 
それ以上勉強する必要がなかったからです。
 
 
 
そんな日は、映画を見に行ったり、
 
理科室の石膏像をデッサンしたり。
 
像は、ヴィーナスやカラカラ帝、マルスなど。
 
私は、アポロという像が好きでした。

 
 
イスの位置が変わらないよう、マジックで印をつけ、3日間かけて仕上げるのです。
 
 
 
でも、デッサンよりも、色彩を使った課題が好きでした。
 
ポスターカラーを使って、春夏秋冬を表現しなさい、とか、
 
コンパスと直線を使って色彩構成しなさい、とか。
 
 
 
 
 
ムーンライダーズ 
  

 
1年間浪人した末、京都市立芸術大学に入学しました。
 
 
 
大学中に起こった変化は、洋楽を全く聴かなくなったことです。
 
 
それは「ムーンライダーズ」というグループの音楽が大好きになり、
 
他の音楽を聴かなくなったからです。
 
 
 
「ブラディーマリー」「鬼火」「いとこ同士」など。
 
 
この曲名は、ヌーベルバーグというフランス映画界のムーブメントがあり、
 
その時期の映画の題名と同じなのです。
 
どれもリアルで孤独な映画でした。 
 
 
 
他に、「スカーレットの誓い」「バラがなくちゃ生きていけない」という曲たち。 
 
 
 
すごく寂しい感じで、
 
ボーカルの鈴木慶一の声も良く、
 
私の持っている孤独感に、とてもしっくりきました。
 
 
 

なぜムーンライダーズを聴きだしたかというと、
 
YMOのメンバー・高橋幸弘が「ムーンライダーズがいい」と言っていて、
 
ずっと、どんな曲なんだろう、と思っていました。
 
 
 
予備校で浪人している先輩がいて、ゼルダやムーンライダーズなど、
 
音楽を回してみんなで聴いていました。
 
 
 
「9月の海はくらげの海」という曲も良くて、
 
媚びていない歌詞が気に入りました。
 
 
 
 
 
孤独感とムーンライダーズ
 
 
ちなみに、大学入学後は、京都で一人暮らしをするようになり、
 
恋愛を通して、気持ちが大きく上下をするのを体験しました。
 
 
特に、感情が下がったとき、
 
「自分は本当に、一人だし、孤独なんだな」
 
ということを、ますます感じるようになりました。
 
 
 
わたしは、一人暮らしが好きではありませんでした。
 
泥棒に入られたこともあるし。
 
なので2年目からは、お友達と一緒に暮らすようになりました。
 
 
 
実は、京都市立芸術大学は、わたしの第一志望ではありませんでした。
 
けれど、先生たちがとても可愛がってくれて、
 
カラオケや食事につれていってくれ、家にもお邪魔しました。
 
 
 
専攻だった陶芸も楽しく、
 
土という自然物を触るのも好きでした。
 
 
 
しかし、「人間は本質的には孤独だ」という思いは、
 
より大きくなっていきました。
 
 
 
その思いと、ムーンライダーズの歌詞は合っていたのです。

すごく寂しい感じの歌で、それが胸にしみる。
 
 
 
基本的にムーンライダーズが作る歌は、前提として、
 
人生はとても辛くて、本当に価値があるものは何も無い、
 
という絶望的な視点に立った上で、作られている。
 
 
「だから、俺たちはそれを乗り越えてやる」というわけでもなく、
 
それをそのまま、絶望を絶望のまま、出している感じがしました。

 
 
 
もうひとつ覚えているのが、「愛さずにはいられない」という映画。
 
 
  ・・・究極的には、人生に意味なんて無いのだから、
 
  この空虚さに耐えうるために、恋でもしていないと生きていられない。
 
 
そんな始まりの映画でした。
 
 
これにも、とても納得する感じがありました。
 
 
 
 
わたしは、何者かになれるだろうか
 
 
 
周りの学生たちを見回すと、その中には、
 
完成度が高く、きれいな作品を作る人もいる。
 
 
そのことが、気になりました。
 
 
 
おそらく、中学・高校・大学を通して、
 
「自分がどれほどの人間になれるのか?」
 
という思いが大きくなってきたのだと思います。
 
  
 
自分には、何が作れるだろうか?
 
芸術の道を絶対がんばりたい、という気持ちはあったけど、
 
自分の創作活動を支えるような、確固とした思想はありませんでした。
 
 
 
何か、真実と呼べるような、自分の根っことなるようなものが欲しい。
 
 
 
「自分にとっての真実を見つけよう。
 
 そうすることで、今の自分を抜け出て、素晴らしい作品も作れるかもしれない」
 
 
そういう思いを、強く抱いていました。
 
 
 
 
好きな作家と恋愛

 
その頃、ルーシー・リーや富本憲吉、バーナード・リーチという陶芸家が好きでした。 
 
あと、クリムト、モンドリアン、モジリアーニなど。
 
 
 
そういう人たちの作品が好きで、
 
自分でも、好きだなと思える作品を作りたい、と思っていました。
 
 
 
しかし、当時は恋愛がうまくいかない中で、
 
恋愛もテーマにしながら作品を作っていたのですが、
 
恋愛そのものが大失恋に終わりました。

 
 
 
 
超越していた仏像
 
 
 
大学の授業で、国宝や重要文化財などの、仏教美術を見に行くことになりました。
 
そのときに、圧倒的に美しい仏像たちと出会ったのです。
 
 
 
それらの仏像を見た時、
  
ルーシー・リーの作品を超えている、と思いました。
 
 
 
もちろん、ルーシーの陶器を見ると、美しいと思いましたし、
 
そこに宇宙の存在を感じました。
 
 
 
でも、東大寺戒壇院や法華寺の十一面観音像、
 
また、興福寺北円堂の無著・世親(むちゃく・せしん)像を見た時は、
 
 
「この人たちは私に何かを伝えようとしている。
 
 何か、メッセージを持って立っている。」
 
 
そう感じました。
 
 
 
そして、仏像を見たことで、
 
仏教の教えそのものにも興味が湧きました。
 

 
どんな思想が、この、人間では作り出せないような
 
圧倒的な作品を生み出したのか、 
 
どうしても、知りたくなったのです。
 
 

  
 

 
 
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1、恋愛を頼りにしたけれど・・・

 
 


  

今回は、わたしが経験してきた恋愛について、
 
振り返りながら、書いていきます。
 
 
 
 
ある愛の詩(うた)
 
 
 
『ある愛の詩』という映画をご存知ですか?
 
1970年代のアメリカ映画です。
 
 
わたしは、この映画を小学校高学年ごろ、見ました。
 
 
オリバーとジェニーという若い2人が出会って、
 
結局、女性(ジェニー)が白血病で死ぬのですが、
 
 
 
オリバー役のライアンオニールがかっこよくて、
 
スケートリンクの観客席に座って、
 
彼が背中を向けて座って言うのです。
 
 
 
「ジェニーが愛したものは、モーツァルトとバッハ、ビートルズ、それに僕・・・」
 
  
 
 
 
わたしはこの映画を見て、
 
ずっと好きってあるんだなあ、すてきだなあ、と思いました。


 
 
文学や映画を通じて
 
 
 
母がいわゆる古典文学を買ってくれていたので、 
 
小学校6年~中学校2年にかけて、
  
武者小路実篤の「友情」「愛と死」など、よく読みました。
 

 

「エデンの園」という映画にも、感動を覚えました。
 
 

お金持ちの娘と、貧乏な男の子が恋に落ちるのです。
 
 
男の子は貧しさの中で犯罪を続け、
 
結局、刑務所に入ることになり、
 
刑務所の外から女の子が名前を呼ぶのです。

 
 
刑務所に一番近い建物から、
 
刑務所に向かって呼びかける女の子。



やっぱり、ずっと2人が好き同士というのがいいなと思いました。

 
 
 
 
どさっと恋に落ちる 
 
 

「うちは子ども中心じゃけえ」
 
という、父の言葉を、よく覚えています。
 
  
父と母は、
 
わたしが映画で憧れていたような
 
「ずっと熱烈に好き同士」という感じじゃなかったので、
 
少しがっかりしていました。
 
 
だから、うちの父と母は、モデルケースにならない、という思いが
 
ずっとありました。
 
 
 
 
ちなみに、わたし自身は、恋に落ちるとき、
 
上からどっさーんと落ちるように、心を奪われることが多かったです。
 
 
 
 
今にして思えば、
 
恋愛に真剣なのは、良かったと思います。
 
 
 
とことん傷つきましたが、
 
それで学ぶことが多かったからです。
 
 
 
恋が成就しなかったり、失恋したりすると、
 
胸がきゅーっと切なくなったり、
 
やっぱり胸が痛くなるんだな、と、
 
胸がちぎれるような感じを味わったり。
 
 
 

誰かを好きになると、
 
ジェットコースターみたいに気持ちが上下します。
 
 
 
たまたま一緒に帰れたら、うれしくて天にものぼる。
 
 
でも、他の子と一緒にいたよ、と聞いたら、
 
とても悲しくなって落ちこむ。
 
 
そういうことが、すごく幸せだったな、と、
 
今になって思います。
 
 
心が耕されたと思うのです。
 
 

 
恋愛で経験する、愛憎や、愛別離苦、嫉妬。
 
 
 
人を好きになったら盲目になるんだな、とか、
 
ほんとうにその人のためだったら何でもできると思ったり。
 
 
嫉妬をしたら空を焼き焦がす気持ちになったり。
 
 
 
だから、仏教の教えを聞いた時、すっと腑に落ちました。
 
自分は、ほんとうに恐ろしい心を持っているんだな、と。
 
闇の中にいるというか、手探りというか。
 
 
 
当時の日記を読み返すと、そのときの感情がよみがえってきます。
 
胸が痛かったことも思い出すけど、
 
 
 
ささいなことで、ああ、今日会えたらいいのにな、と思って、
  
何かがあって偶然会えたり、
 
会えなかったけど、上着だけ置いてあって、胸がどきどきしたり。
 
  
 
今から考えると、
  
そういうことって、
 
やっぱり宝物だと感じがします。
 
 



恋愛を振り返ってみる
 
 

でも当時は、二度と恋なんかしない、と毎回思いました。
 
こんな苦しい思いをするくらいなら、と。
 
 
でも、また好きになるんですよね。

 
 

 
 
恋愛に対する、希望と絶望

 
 
わたしは、恋愛についてずっと疑問に思っていたことがありました。
 
 
 
「なぜ付き合って時間が経つと、ぬるま湯みたいになるんだろう?」
  
 

時間がたつと、当たり前の関係になって、
 
ぞんざいな付き合いになって、愛が冷める。



相手から冷めることもあれば、わたしから冷めることもある。


恋愛は、熱さが続いている3ヶ月目までが好き、と思っていたこともありました。

 

「ナインハーフ(9と2分の1)」という映画があって、
 
それは恋愛が冷めるまでの時間のことです。

 
 
9週間と半分、つまり2ヶ月ちょっとは恋愛の熱が続く、という意味。
 

 
当時とても流行した映画で、
 
音楽もかっこう良かったです。


 
そういう、ナインハーフという言葉があるように、
 
恋愛の電気が走るような熱い感覚が、3ヶ月もすれば薄れていく。
 
ドキドキ感が無くなっていく。

 
 
やっぱり、自分勝手な行動とか、
 
相手に言うことを聞かせようとか、
 
そういうのが嫌になってくるのが常でした。
 
 
 
またか、と。

 
 
だから、絶対的に私のことをずっと好きでいてくれる人って、いないのかな。
 
ずっと最初の勢いで恋してくれる人って、いないのかな、と。
 

 
 
 

そう簡単には結婚しないぞ
 
 
 
わたしが高校生のとき、とても好き同士だったある2人が結婚しました。
 
そして、翌年には子どもを生んだのです。

しかしその次の年、離婚しました。
 
 
 
それを見て、わたしは結婚に望みを持たなくなりました。
 
 
 
あんなに好き同士だったのに。
 
遠距離恋愛で電話で2時間も3時間もしゃべる、
 
デートして帰ってきてもまだしゃべる。
 
 
 
そんな、とても好き同士だった2人なのに、
 
 
遠距離恋愛になったとき、
 
バケツをひっくりかえしたように毎晩泣いて。
 
どうしようもないので、すぐに籍を入れることになって。
 
そして無事に出産までしたのに。
 
 
 
次の年には別れることに。
 
 
 
 
ああ、あんなに好きどうしだったのに、だめになっちゃうんだなあ。
 
それがとてもショックでした。
 
 
 
わたしは結婚しないぞ。
 
子どもも、少々のことじゃあ、生まないぞ。

 
 
そう決心しました。


 
あんなに好き同士でも別れるんだし、
  
子どもがかわいそうでした。
 
 
よっぽどじゃないと、結婚しないし、子どもも生まないぞ。
 
 

また、結婚以外の何かを見つけないといけない、とも思っていました。
 
男性に経済的に頼らないでも、生きていけるようにならないと。
 
 


恋愛に依存してしまわないように
 
 
最初に書いた映画「ある愛の歌」のキャッチフレーズは
 
「愛とは、決して後悔しないこと」
 
でした。
  
  
 
わたしも、恋愛に対して、
 
逃げない、逃げ腰にならない、後悔しないぞ、
 
という信念がありました。
 
 
 
だから、付き合うときも、いつも真剣でした。
 
 
 
でも一方で、恋愛に100%頼ってはいかん、という思いもありました。
 
 
燃え続けるような恋愛じゃないと、という思いも、はっきりありましたが。
 
 
 
 
 
理想の関係


「大草原の小さな家」のチャールズとキャロラインのような、
 
ずっと愛し合っている夫婦に、憧れていました。



また、ダリとガラのような、熱烈な関係にも憧れていました。
 
  
(ダリはスペインの画家で、シュールレアリズムの代表的作家で、
 
ぐにゃりと曲がった時計の絵など、みなさんも見たことがあると思います。)
 
 
 
ガラは、元々、夫も子どももいたのに、ダリと一緒になったのです。
 
  
 
ガラは「わたしを殺して」とダリに言ったのです。
 
 
ダリは「ガラがいないと、ぼくは生きていけない」というのです。


 
 
そんな、「その人がいなければ、生きていけない」という強烈な愛に、あこがれました。
 
 
わたしの中に、確かな手ごたえを与えてくれるものを、求めていたのです。
 
 
 
 

このように、わたしは運命の相手を望んでいたのですが、
 
 
現実には恋愛の熱は長続きせず、幻滅するのでした。
 
 
 
 
 

 
 
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2015年8月2日日曜日

3、神様への疑問

 
神様って、本当にいるの?
 
 
神様に対する疑問は、どんどん増えていきました。
 
 
 
神様がいる、ということは、美しいことだと思う反面、
 
「神様が全知全能なのに、なぜ不幸な人がこの世にいるのか?」
 
「なぜ戦争が終わらないのか?」
 
「今、苦しんでる人たちを助けることが出来ないのは、なぜ?」
 
 
 
広島出身なので、原爆のことも疑問でした。
 
 
「神はなんでも知ってるんだから、原爆が落ちるのも分かっていたのに、
 
 なぜ落ちるときに原爆を手でキャッチしてくれなかったのか?」
 
 
そんな気持ちが、どうしてもありました。
 
 
 
 
神はなぜ、この苦しむ人たちを、ただ見ているだけなのか。
 
  
  
 
また、小さなことも気になりました。

 
神がなんでもご存知ならば、
 
私が今していることも、これから起こす行動も知っているのかな。
 
食事のときに、ごはんから食べるのか味噌汁から食べるのか、というのも、
 
知っておられるのかな。
 
 
ご飯から食べると見せかけて、裏をかいて味噌汁から食べても、
 
それもお見通しなのか。
 
 
 
 
 
 
 
苦しむ人々の存在
 

 
でもやはり、広島生まれとして、
 
神がいるのに、なぜ原爆が落ちたのかが納得できませんでした。
 
 
 
 
また、飢えて死んでいく人がいるのはなぜか。
 
当時、エチオピアの飢餓ニュースがよく流れていました。
 
 
 
 
うつくしい讃美歌も好きだったし、神様がおられたら素晴らしいと思っていましたが。
 
 
「主われを愛す 主は強ければ
 
 われ弱くとも おそれはあらじ
 
 わが主イエス わが主イエス
 
 わが主イエス われを愛す・・・」
 
 
 
 
 
 

イエスが私のために死んだ?
 
 
 
キリスト教では、イエスがわたしの罪をかぶって死んだ、と教わります。
 
 
1800年前に?私の罪をかぶった?・・・何だろうそれは。
 
 
 
そして、その罪は何かというと、「原罪」(げんざい)と言います。
 
 
 
その原罪って何?というと、
 
 
「アダムがエデンの園を出たから」
 
 
知らんやん!そんなん!アダムって誰!?
 
 
 
そこに大きな疑問がありました。
 

なぜ、キリストの死だけがそんなに尊く、私の生と関係があるのか?
 
その理由は、神の子だから、ということでしたが、
 
わたしは納得できませんでした。
 
 
キリスト以外にも、誰かのために犠牲になって死んだ人は、
 
数え切れないほど、たくさんおられるのに、
 
なぜ彼の死だけがそんなに特別なのか。
 
 
これは本当に、腑に落ちませんでした。
 
 
 
 

 
「塩狩峠」(しおかりとうげ)を見て
 
 
 
 
広島女学院では、「聖書の時間」という授業があり、
 
ある日、「塩狩峠」という日本の古い映画を見ました。
 
 
 
本当にあった話らしいのですが、
 
ある国鉄の職員がいて、彼は
 
結核患者であるうつくしい女の人を、とても好きになったのです。
 
 
 
彼女はキリスト教信者で、
 
彼もまた、徐々にキリスト教を信じるようになりました。
 
 
 
そして、結婚しよう、ということになり、
 
その結婚式の前の日に、事件が起こります。
 
 
 
彼が乗っていた列車がトラブルを起こし、
 
止まらなくなり、このままでは大事故でたくさんの人が死んでしまう。
 
どうやって止めればいい?ブレーキもきかない。
 
 
 
そこで彼は、自分はすでに神に救われているから、と、
 
勇気を出して、列車の前にジャンプして、
 
その体をブレーキ代わりにして、列車を止めたのです。
 
当然、彼は亡くなってしまいます。
 
 

結婚を心待ちにしていた女性は、、一人ぼっちになってしまった。
 
 
 
しかしその映画では、
 
 
「彼女はキリスト教信者だったので、
 
 彼女は、おのれを犠牲にして人々を救った彼の死を誇らしく思い、
 
 悲しみではなく、喜びをもって、
 
 彼の死を受け入れた」
 
 
という結末でした。
 
 
 
わたしは、たしかに美しい映画だったけれども、
 
それは、綺麗ごとじゃないか。
 
犬死にじゃないか、こんなの。
 
 
と、思いました。
 
 
 
「彼の死は、たくさんの人を救ったのだから尊いことだけれども、
 
 もし神がいなかったら、その話はどうなるのだ?」
 
 
と、裏からものを見るような気持ちにもなりました。
 
 
 
映画のつくりのせいもあるかもしれませんが、
 
反発する気持ちがありました。
 
 

やっぱり、神というものが、心底からは信じられませんでした。
 
 

神がいるのならば、姿を見せて欲しい。
 
神がいるのならば、すぐに奇跡を見せてほしい。
 



映画を見終わって、先生に「綺麗ごとだと感じた」という感想文を書いて出しました。

しかし、相手にしてもらえませんでした。
 
 
 
 

 
 
 
わたしは天国に行けない
 

 
 
また、別の質問を手紙で書いたことがあり、
 
「神は本当にいるのでしょうか」
 
という内容を書いたのですが、
 
先生からの返事はありませんでした。

むしろ逆に、不真面目な生徒と思われたようでした。

 
 

高校に入る前くらいから、
 
神は見えないし、確証が持てない、ウソなんじゃないか、
 
という気持ちが大きくなってきました。

 

 
そして、
 
「天国の門ははりの穴よりせまい」
 
という言葉があり、
 
私は天国にいけないのではないか?信じていないのだから。
 
と考えるようになりました。
 
 
 
 
 

 
 
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2、美しい祈り

 
 
なぜ、同じキリスト教で、こんな違いがあるのか?
  
 

 
 
あとで学んで分かったのですが、
 
 
キリスト教全体でいうと、カトリックが大きく広まっており、
 
信者の半分以上を占める大きな一派なのでした。
 
 
カトリックでは、教会・神父さん・信者さん、この関係がすごく濃厚です。
 
神父は聖職者で結婚もしないし、「信仰に導いてくれるすごい存在」になりがち。
 
すごい存在だから、権威力もあるし、信者はお金をたくさん払う。
 
教会も、立派なステンドグラスや絵画がせまってくる、とても荘厳でありがたい雰囲気。
 
 
 
そのカトリックの歴史を古くから見ると、
 
権威も集まりお金も集まり、次第に腐敗していったようです。
 
 
 
法王なのに女を買い漁っていたり、
 
男の法王と言われていたが実は女性で、馬の上で出産したとか、
 
そんな、うそのような話まであります。
 
 
 
 
 
 
腐敗への反発から生まれたプロテスタント 
 
 
 
プロテスタントは、そういうことに反発してできたもの
 
始まりはマルチン・ルターという人から。
 
 
 
カトリックとは反対に、教会は素朴にシンプルに。
 
 
 
信仰面でも、牧師が信者を信仰に導くというより、
 
信者が神を信ずる信仰心そのもの、それを根拠として救われていく。
 
 
 
そういうことを主張して後に出てきたのが、このプロテスタント。
 
だから、別に牧師さんといっても、
 
ローマ法王のような立派なローブを着ているわけではありません。
 
 
 
 
ちなみに、アメリカは全般的にプロテスタントが広まっています。
 
 
 
 
 

広島女学院はプロテスタントのメソジスト派
 
 
 
 
私が入った広島女学院を創立したのは、
 
アメリカから渡ってきた若い女性でした。
 
 
 
わたしが在学していたときに100周年があったのですが、
 
戦前にプロテスタント系の若いアメリカ女性が、
 
日本で女学校を作ろうと志して来たのです。
 
お名前をゲーンズ先生と言います。
 
 
 
何もご縁のない土地で女学校をつくり、
 
キリスト教の精神を広めていったゲーンズ先生。
 
 
それはすごい勇気があることだと思います。
 
 
 
学校にはゲーンズホールという講堂もあり、
 
ゲーンズ先生の教えが、今でも伝えられています。
 
 
 
その中で、中学1年の最初から習ったのは、
 
「チェストアップ(胸を張りなさい)」
 
ということ。
 
 
 
その姿勢に全てが現れているからと。
 
 
 
だから学校の中に鏡がいっぱいありました。
 
 
各階段の下には全身鏡。
  
窓・鏡・窓・鏡・窓・鏡という感じで。
 
それでみんな姿勢を正していました。
 
 
 
そのことは、今でも尊敬しています。
 
すごい先生だな、と。
 
 
 

やっぱり、今自分がブラジルに来て分かりますが、戦前ですよ。
 
第一次世界大戦前、これからどうなっていくか分からないときに、
 
まったく言葉も分からない場所なのに。
 
 
 
ブラジルには日系社会があって、お友達も作りやすいですが、
 
そんなものも全くないところにいって、
 
女一人で、どんな野蛮な国かも分からないのに、女学校を作って、
 
ほんとうに若い女ざかりのときに、普通の幸せをまるであてにせず。
 
 
 
ゲーンズ先生は、そのまま日本で亡くなられたはずです。

 
 
この先生のこと、ほんとうに尊敬しています。
 
 

 
 
 
神様と祈り

 
 

それまでの「神様」という概念は、なんとなく、
 
神社でおまいりする神様だったり、
  
ぼんやりしたイメージしかありませんでした。
 
 
 
でも女学院に行って、しっかりとした裏づけと意味を知り、
 
「神とはそういうものだったんだ」
 
と学びました。
 
 

神というものに対して、みんながいっせいに祈る。
 
 
 
わたしは、全くの異文化にふれたのです。
 
それも毎朝、神に祈るのです。
 
 
 
ふつうの学校だったら、
 
朝礼があって「ろうかを走ってはいけません」とか、
 
注意事項が連絡されます。
 
 
 
そうではなくて、朝から、神に祈る時間があるのです。

先生がたもキリスト教の人が多く、
 
交代でお話をしてくださいました。
 
 
 
聖書の言葉が読まれ、
 
 
「マタイによる福音書。ジョセフがタネを植え、イサクが水をやった。
 
 けれども成長させてくださるのは、神のみである」
 
 
そんな言葉を聞くのです。
 
 
 
言葉の意味は、分かるような分からないような・・・ですが、
 
とにかく、かっこいいと思いました。
 

 

女学院の生徒は、制服に校章をつけていました。
 
 
銀色で盾(たて)の形をしていて、そこにたしか、
 
「わたしたちは神の労働者なり」
 
という意味の聖書の言葉が、ラテン語で書いてありました。
 
 


また、有名な、
 
「愛は寛容であり、愛は情け深い。
 
 また、妬むことをしない。
 
 愛はたかぶらない、誇らない、不作法をしない、
 
 自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
 
 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
 
 すべてを望み、すべてを耐える。」
 
 
これは一番感動しました。
 
 
他にも、ノアの箱舟や、アダムとイブなど。
 
以前から、お話としては知っていましたが、
 
聖書とはこうなっているんだ、ということがよく分かりました。
 
 

マリアには4人いるのですが、
 
マグダラのマリア、イエスの母のマリアなど。
 
もっとも感動したのは、マグダラのマリアでした。
 
 
 
彼女は売春婦で、この職業はやはり当時も蔑視(べっし)されていて、
 
民衆がいじめだして、
 
「こいつは汚い女だ!」と、
 
みんなが石を投げ始めたのです。
 

石で殴り殺しにされそうになったマリアの元に、イエスが現れ、
 
 
「今まで何も悪いことをしたことが無く、
 
 何も心に悔やむことが無い者だけが、
 
 石を投げなさい」
 
 
そう言うと、民衆はわが身をふりかえり、石を投げるのを止めたのです。
 
 
 
 
 
また時々、イエスは奇跡を起こします。
 
 
死にかけた人を救ったり、
 
ハンセン病というとても疎まれた病気があったら、(皮膚病になって隔離される)
 
その病気になった人たちを癒してあげたり。
 
そういう話にも感激しました。
 
 
 
定番の神への祈りもありました。
 
 
「私たちをあなたの道具としてお使いください」
 
 
「天にまします我らの父よ
 
 ねがわくは御名(みな)をあがめさせたまえ
 
 御国(みくに)を来たらせたまえ
 
 みこころの天になるごとく、
 
 地にもなさせたまえ
 
 我らの日用のかてを、今日も与えたまえ
 
 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
 
 我らの罪をもゆるしたまえ
 
 我らをこころみにあわせず、
 
 悪より救い出だしたまえ
 
 国と力と栄えとは、
 
 限りなく汝のものなればなり
 
 アーメン」
 
 

というのが好きで、
 
夜も祈っていました。
 
 
 
 
この祈りが好きだった理由は、
 
すごく良い言葉で内容も美しいからです。
 
 
 
 
平和の祈りもありました。
 
 
いつも先生たちが、礼拝の後に必ず祈る時間があって、
 
 
「今、具合が悪くて欠席しているお友達に慈しみをお与えください。
 
 世界中で苦しんでいる人たち、
 
 戦っている人たち、
 
 つらい思いにさらされている人たちを、

 どうぞお救いください」
 
 
と言うのです。
 
 
 
それがすごく好きで、
 
この礼拝堂で800人の生徒が、世界に対してそういうふうに願うということは、
 
とても尊いことであると感じました。
 
 
 

今思えば、教訓めいたものが好きだったのか、
 
小学校でも本を読むのが好きで、
 
同学年では図書館でもっとも本を借りた生徒でした。
 


そのときに、ああ無情とか秘密の花園とかの文学も読みましたが、
 
道徳っぽい話を読むのも好きでした。
 
「○○ちゃんは大きなりんごを欲しがりました」
 
とか、お兄ちゃんと弟の話とか。
 
 

広島女学院中学校は、清らかな世界がここにあるなあ、と思った3年間でした。
 
 
  
 
 
 
疑問が生まれる
 
 

しかし、その中で、天国に入るとはどういうことなのか?という疑問が生まれました。
 
 

「天国の門は、はりの穴より小さい」
 
という言葉が、気になるようになりました。
 
 
また、神が時々いじわるになるのはなぜ?と思ったりもしました。
 
 
 
 
 
 
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1、初めて、宗教にふれた時。

 
 
最初の宗教の記憶
 
 
思い返せば、宗教についての最初の記憶は、おばあちゃんが「浄土真宗の門徒」でした

(浄土真宗は仏教宗派の1つ。門徒とは浄土真宗の信者のこと)
 
 
 
そして、わたしの通っていた幼稚園は、浄土真宗のお寺がやっているところでした
 
 
 
覚えているのは、茶道の時間があったこと
 
お茶をいれてもらったり、お菓子を食べるのが好きでした
 
 
 
ちなみに母によると、「幼稚園にはお仏壇があるのに、家にはない」といって、
 
折り紙でお仏壇を作って、仏さまを描いて、
 
ちょっと拝んでみたりするのが、好きだったそうです
 
 
 

もう少し大きくなった頃、映画で吸血鬼(ドラキュラ)が流行りました
 
 
 
ドラキュラが怖かったわたしは、映画の中でにんにく&十字架でやっつけられる彼を見て
 
 
「とにかくにんにくと十字架だ
 
 十字架って、すごい威力があるんだなあ」
 
 
と思い、小学校のころは、
 
祭りの屋台で、十字架のネックレスを買いたがっていました
 
イエスがくっついてる十字架を2,3回買いました
 
 
 
ある時、十字架の表面にキラキラした石が並んでくっついているものを手に入れて 
 
(今見てもかわいいと思うようなデザインでした)
  
 
「吸血鬼が来たら、これだ!」
 
 
と、しっかり迎え撃つ準備をしていました。
 
 
 
広島県可部町の小さな田舎だから、
 
吸血鬼が現れるわけもないんですが。
 
 
  

 
小さい頃にふれた宗教といえば、こんなものです
 
 
 
 
 
 
 
 
キリスト教との出会い
 
 
 
父が洋画好きだった影響もあり、そのうちに洋風のものが好きになりました。
 
 
 
 
わたしは5,6年生の時、担任先生と合わず、
 
学校で勉強をしなくなりました。
 
 
 
そこで母は、わたしを塾に入れました。
 
 
母としては勉強だけしてくれたらよかったようですが、
 
 
思いがけずそこは進学塾で、
 
「広島女学院とノートルダム清心という学校がすごくいいらしい」
 
と聞いて、わたしはなんとなく広島女学院という響きが気に入りました。
 
 
  
そのときはキリスト教系の学校だとも知らなかったのですが、
 
なぜか、がむしゃらに勉強して合格しました。
 
 
 
受かったときに、初めて入学式で学校にいきました。
 
入学式といえば体育館でやるものと思っていましたが、
 
広島女学院は「礼拝堂」でやりました。
 
 
 
礼拝堂とは、言ってしまえば教会のようなもので、
 
パイプオルガンや美しいステンドグラスがありました。
 
 
 
それで衝撃を受けました。
 
 
 
学校に持っていく持ち物にも、黒い聖書と讃美歌の本が入っている。
  
 
 
これはなんじゃ。
 
小学校でもらった教科書とは、ぜんぜんちがう。
 
 
 
「ほほー!なんか美しいぞこれ」
 
と思いました。
 
 

でも、少し残念だったのは、
 
広島女学院はプロテスタントだったので、
 
「ひざまづいて、胸の前でネックレスについてる十字架をにぎりしめるポーズ」
 
は、やりませんでした。
 
 
 
あのポーズ、すごくやりたかったんだけど。
 
 
また、胸の前で十字を切るように手を動かすこともしません。


 
 
 
でも、とにかく「かっこいい!」と、衝撃を受けました。
 
 
 
 
わたしの入ったこの広島女学院、
 
キリスト教の「プロテスタント」でした。
 
 
 
キリスト教にはいくつも宗派がありますが、
 
大きく分けて2つあります。
 
 
 
「カトリック」と「プロテスタント」です。 
 
 
 
みなさんがテレビでよく見るローマ法王は、カトリックです。
 
いつも白い立派なローブ(服)を着ています。
 
また、教会もものすごく豪勢に作ってあります。
 
(カトリックでは、聖職者を「神父」と呼びます)
 
 
 
 
反対に、プロテスタントは素朴で驚きました。

十字も切らないし、クロスのネックレスを首にかけることもない。

礼拝堂の十字架に磔(はりつけ)にされたイエスさまもいませんでした。
 
(プロテスタントは、聖職者を「牧師」と呼びます) 
 
 
 
 
 
 
なぜ、同じキリスト教で、こんな違いがあるのか?
  
 
そういうことも、後に分かってきました。
 
 
 

 

 
 
 
 
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2015年8月1日土曜日

3、もしも自分が死んだら、どうなるの?

 
 
亡くなった近所の子
 
 
 
子どもの頃、河原でよく遊んでいました。
 
家の前の土手をおりると、すぐ河原になっていて、
 
よくそこでみんなと集まりました。
 
 
 
その川は、たいして大きくもない、大田川の支流です。
 
深い場所もほとんどなく、わりと安全な場所でした。
 
 
 
ある日、 きみちゃんという1つ上の女の子が、向こうから走ってきました。
 
きみちゃんの家には、遊びにいくとよくお野菜入りラーメンを作ってくれる、
 
やさしいお母さんがいました。
 
 
 
そのきみちゃんが、異様にあせった感じで走ってきて、
 
「○○ちゃんが、大変や」
 
と言うのです。
 
 
 
分かったことは、
 
わたしたちが遊ぶ河原から400m下流で、
 
○○ちゃんという2才の女の子が、死んだこと。
 
 
 
小さな子が好きだったわたしは、その子ともよく遊んでいました。
 
 
 
その子は、年上のお兄ちゃんがいたのですが、妹だけが死んだのです。
 
 
たいして深くない川なのに、
 
たまたま深くなっていたところに、
 
はまってしまったのでした。
 
 
 
 
その時感じた風景は、今でも忘れられません。
 
 
 
じりじりと暑く、土手の砂が白かった。
 
 
 
 

  
後で母に聞いたところ、川に落ちた女の子はなかなか見つからず、
 
大きなフォークのような道具で、
 
大人たちが川底を刺して探したそうです。
 
 
 
「モノみたいに刺されるのか・・・。たとえ生きていても、それだけで死んでしまうじゃないか。」
 
 
 
2才で死ぬなんて。
 
 
 
 
 
自分が死ぬ、ということ 
  

 
自分はたまたま死ななかったが、
 
自分も死んでも、何もおかしくなかった。
 
わたしも、いつも河原で遊んでいたから。
 
 
 
 
人は必ず死ぬ、という当たり前のようなこと。
 
絶対に自分は死なない、と思って、生きているわたし。
 
でも、死んだ後、どうなるか分からない。
 
大人に聞いても、だれも答えてくれない。
 
 
 
 
死への恐怖。
 
死んだ後、どうなるか分からないこと。
 
人生に対する大きな問い。
 
 
 
 
そんなものの原型が、わたしの中に根づいていったのでした。
 
 
 
 
 

 
 
 
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→次ページ 「1、初めて、宗教にふれた時。  」 
 
 
  
 
 

 
 
 

 
 

2、お父さんとお母さんが好きすぎて・・・

 
 
ずっと怖かったこと
 
 
小さい頃から、わたしは母がすごく好きです。
 
 
 
母が家にいないときは、
 
早く帰ってきてほしいなと思いました。
 
けっこう、寂しがりやだったんですね。
 
  
 
だから、母がPTAの用事などで家にいないと、心配になって、
 
「お母さんが誰かにつれていかれる」とか、
 
「こわい人にケガをさせられる」とか、
 
そんな変な夢をよく見たものです。
 
 
 
 
父のことも大好きでした。
 
それで、今でも覚えていることがあります。
 
 
 
父によく似た顔の男性が、わたしが遊んでいる公園の横を、車で通ったのです。
 
「あ、お父さんだ」
 
そう思って、走っていって手をふったのですが、
 
気づいてくれませんでした。
 
 
それが悲しくて、わたしは泣いたのですが、
 
家に帰って「お父さん。今日、公園の横の道、車で走ったじゃろ?」と聞くと、
 
「ん?走っとらんよ?」
 
と言われたのです。
 
 
この時の不思議な感覚は、今でも印象に残っています。
 
 
 
 
 
いつか、父と母と別れなければいけない
 

 
わたしにとって、父や母がいなくなること、ちがう世界に行ってしまうこと、
 
それは、とても怖いことでした。
 
 
 
だから、父や母がいつか必ず死んでしまうという現実は、
 
なによりも恐怖でした。
 
 
 
自分を安心させ、ほっとさせてくれる存在が、
 
好きで好きで、ずっと一緒にいたい存在が、
 
いつかわたしを置いて消えてしまう。
 
 
 
それはいつか現実に起こることだけれども、
 
わたしには耐えられない。
 
 
 
これを読んでいるみなさんは、そんなこと、考えたことありませんか?
 
 
 
 
 

 
 
 
 
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1、すばらしい両親の元に生まれて

 
 

 
こんにちは、光雲です。
 
今回は、なぜわたしが仏教を求めたのか、お話したいと思います。
 
 
 
 

すばらしい両親
 
 

「光雲な毎日」という本にも書きましたが、わたしは、
 
とても面白くて日本人離れした明るい父と、
 
寛大で天然な母の元に生まれました。
 
 
 
今でも父のように明るい人には、会ったことがありません。
 
 
道を歩いている知らない人にもよく声をかけ、
 
タクシーに乗ったらすぐに運転手さんに
 
「カープはどうかいの?」
(広島だったので、野球チームのカープの試合について聞いている)
 
などと、しゃべりかけます。
 
 
 
どこに行っても気に入られる人で、
 
仕事先で「これ持って帰りんさい」と、
 
よくお土産をもらって帰っていました。
 
 
 
そんな父から、「あんたは世界一の娘じゃ」と、毎日のように言われて育ちました。
 
 
 
 
母はわたしのことを心底から信頼してくれていて、
 
小学校のときに、担任の先生が
 
「裕子さん(わたしのこと)は、もう考えていることが大人といっしょです」
 
と言われて、
 
「考えていることが大人といっしょなら、もう教えることはない。
 
 この子がやりたいことをやらせて、それに私がついていこう」
 
と思ったそうです。
 
その言葉の通り、やりたいことを何でもやらせてくれました。
 
 
 
底抜けに明るい父と、慈愛に満ちた母の元で育つことで、
 
「自分は最高なのだ」
  
という自己肯定感をもつことができました。
 
  
 
おかげで、学校では友達も多く、スポーツも勉強もたのしかったです。
 

 
 
 
 
 
何度も見た夢
 
 
 
けれども、わたしは寂しがり屋でした。
 
「この世界にわたしは一人だ」
 
という思いが、心の根っこにありました。
 
 
 
 
小さい頃は、「四次元の世界」というのが恐ろしかったです。
 
川口ひろし探検隊や、宇宙人とかUFOが流行っていました。
 
「マイクがUFOにさらわれたのは、その夜だった・・・」みたいな始まりのテレビ番組とか。
 
 
 
 
今になって思い出すのは、何回か見た夢があります。
 
 
 
知ってる町の平地にあった、小さな集合住宅に遊びに行くのですが。
 
人は住んでいるのですが、いつ行っても静かで、不気味な感じがする場所。
 
わたしは夢の中で、そんな所をさまよい歩くのです
 
 
 
その集合住宅の、知っている人の家に行ったけど、その人はいなくて。
 
ちがう人がいて、わたしが
 
「ここ、○○ちゃんが住んでるんじゃないんですか?」
 
と聞くと、その人は困ったような悲しい顔をするのです。
 
 
 
けれども、その顔の印象がまったく無くて、まるで首から上が無いような。
 
顔はあるはずなんですが、のっぺらぼうみたいに、覚えられない。
 
 
 
 
すこしちがうけど、同じような夢もありました。
 
 
 
地球そっくりだけど、地球じゃない空間に行ってしまい、
 
どうやら、わたしはもう帰れない。
 
 
 「帰りたいんですけど」
 
とわたしが言うと、そこにいる人たちが悲しそうに首を横にふる。
 
 
 「かわいそうにね」
 
 「もう前のところには戻れないのよ」
 
 
そんな言葉を聞いて、
 
あまりにも寂しすぎて、目が覚めるのです。
 
 
 
 
わたしの中には「寂しさスイッチ」みたいなものがあります。
 
 
その夢の中で、すごく「人間は一人なんだな」と感じました。
 
 
 
 
まるで、星新一の小説のような夢でした。
 
 
 
 
 
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2015年7月31日金曜日

いつ死んでも、大丈夫

 
 
これまで、人生がどのようなものか、全体像を見てきました。
 
 
振り返ってまとめると、
 
 

1、工夫次第で、楽(幸せ)を増やすことができます。
 
 
2、人生には、避けられない苦しみもあります。
 
  特に「いつか必ず死ぬ」ということは、誰もが避けたいものです。
 
 
 
 
 
 
もしも「死ぬ」ことが無かったら
 
 
 
もしも「死ぬ」ことが無ければ、
 
人生をはるかに幸せの多いものになります。
 
 
 
みんなが死なないのだから、
 
大好きな人と別れることもありません。
 
 
もちろん自分が死ぬこともありません。
 
 
 
 「死んだらどうなるか、分からない」という不安も、無くなります。
 
 
 

 
 
 
「死ぬ」ことは、人生最大の不幸
 
 
 
しかし、とても残念なことには、
 
わたしたちは必ず死ぬ日が来ます。
 
 
 

ところで、なぜ死ぬのは嫌なことなのでしょうか?

その理由をいくつかあげてみます。



 

・まず、家族やお友だちと会えなくなります。
 
 彼らはこの世に残り、自分だけ、死んでいきます。

 


・稼いだお金や、買った物とも、別れることになります。

 
 
・いつ死ぬか、分からない。
 
 事故や災害など、急に死ぬことになったニュースは、
 
 毎日のように流れています。
 


・死んだらどこへ行くのか、分かりません。
 
 「死んだらみんな天国へ行く」とも言われますが、
 
 次の世があるかどうかも、本当には分かりません。


 

・死んでしまう時には、自分の肉体とも別れないといけません。

 指が1本無くなるだけでもつらいのに、

 この体まるごと、別れないといけないのです。

 
 
 

このように、まじめに考えてみると、
 
死ぬということは他の苦しみとは別格の、人生最大の不幸と言えます。
 
  
 
 
そのため、仕事に没頭する人の中には、

「死の恐怖を忘れる手段」として、

仕事に夢中になっている人もいるほどです。
 
 
 
 
 
どうにかして、この「とても嫌なこと」を解決できないでしょうか?
  
 
  
 
やせ我慢ではなく、本心から
 
「いつ死んでも、大丈夫」
 
と言えるようになるには、どうすればよいのでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
「いつ死んでも、大丈夫」になった、人生の先輩たちを探そう
 
 

死ぬことは、人間にとって大問題であるはずですが、
 
まったく解決策が無いためか、話題にのぼることすらありません。
 
 
 
もしかしたら、死ぬ直前の肉体的な痛みや恐怖心は、
 
麻酔や薬でごまかせるかもしれません。
  
 
しかし
 
 「死んだらどうなるのか?」
 
 「死後があるのか、ないのか?」
 
という問題は、解決されないまま。
 
 
 
「死んだらどうなるの?」という話をしてくるのは、
 
幼い子どもくらいのものです。
 
 
 
けれども「死んだらどうなるの?」という問題を解いた大人は、
 
ほとんどいないのではないでしょうか。
 
 
 
多くの人が、「そんなことは、大人は考えないものだ」といって、
 
子どもの頃の疑問を、忘れてしまっているのだと思います。
 
 
 
なぜなら、考えても考えても、答えが出ないから。
 
 
 
 
 
でも、イスラム教徒の人に聞けば、
 
 「自分がどこから来て、死んだらどこへ行くのか、分からない。
 
  だからこそ宗教が必要なのだ」
 
と言いますし、
 
キリスト教徒の人にとっても、死後や神の存在は大問題です。
 
 
 
わたしにとっても、子ども時代から大人になっても、
 
どうにかしてこの問題を解決したいと考えていました。
 
 
 
では、どうすれば「いつ死んでも大丈夫」と言えるようになるのでしょうか。
 
 
 
 
 
 

「いつ死んでも大丈夫」の条件
 
 
 
私が考えた条件は、この2つです。
 
 
 
 1、「死んだらどうなるか分からない」という不安が解消されている
 
 2、しかもそれが、一時的な思い込みではない。(死ぬまで不安が解消された状態)
 
 
 
 
『光雲な毎日』という本にくわしく書きましたが、
 
わたし自身、仏教との出会いによって、
 
「死んだらどうなるか分からない」という不安が解消されました。
 
 
 
そこで興味が出て、この「死に対する不安」を解決をした人々が、他にもいるんじゃないかと、
 
10年ほど前、龍谷大学の大学院に入って、
 
仏教とキリスト教を比較する、という研究をスタートしました。
 
 

その中で、「いつ死んでも大丈夫」という境地に生きた人々を知りました。
 
 
 
 
 
もしかしたら中には、ただ思い込みが強かっただけの人も、いたかもしれません。
 
 
 
けれども、少なくとも「いつ死んでも大丈夫」と言えるようになったことは、
 
とても素晴らしい価値があるものだと思いました。
 
 
 
なぜなら、「いつ死んでも大丈夫」と言える境地で生きている人は、
 
ほとんどいないからです。
 
 
 
 
 
 
 
もっとも自由な人生
 
 
 
 
死後への不安が解消されて、
 
「いつ死んでも大丈夫」と言える人生は、
 
もっとも自由な人生だと思います。
 
 
 
なぜなら、「いつ死んでも大丈夫」ということは、
 
世界中の人が恐れる「死」から、自由だからです。
 
 
いつ死ぬ日が来ても、困らないわけです。
 
  
 
 
わたしは仏教によって死から自由になったわけですが、
 
そういう力を持つのは、仏教だけではないかもしれません。
 
 
西洋哲学やキリスト教の世界でも、
 
素晴らしい宗教体験を得た人の記録はのこっています。
 
 
 
※くわしく知りたい人は、「宗教体験の諸相」という本がおすすめです。
 
宗教的経験の諸相 ウィリアム・ジェイムズ 
http://www.amazon.co.jp/dp/4003364023
 
 
 
 

 
 
まじめに生きると、死と向き合うことになる
 
 
 
人生にまじめに向きあうと、死を考えることは避けられません。
 
生と死はコインの裏表であり、
 
生まれたからには、100%死ななければいけないからです。
 
 
 
ならば、ごまかし続けるのではなく、
 
正面から向き合って解決しようとするのが、よいと思います。
 

 
みなさんがどのような道で、死を解決しようとされるかは、分かりません。
 
わたしは仏教でしたが、違う道を選ぶ人も当然あるでしょう。
 
 
 
 
参考までに、わたしが通った道をまとめると、

 
 ○「いつ死んでも大丈夫」になった人を見つける
 
 ○その人と同じ道を進んで、死後への不安を解決する
 

このようになります。 
 
 
 
 
少なくとも、自分よりも先に「いつ死んでも大丈夫」になった人を見つけることで、
 
大きなヒントが得られるはずです。
 
 
 
 
たくさんの人たちが、いつ来るか分からない死に対して
 
「いつ死んでも大丈夫」と、堂々と言える日が来るのを、
 
心より願っています。
 

 
 
 
 
 
 
カテゴリ ”光雲が仏教を求めた理由”
 
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